出征後の力太郎が郷里の父・勝三郎に宛てた書簡には、「小生出発以来無事軍務に」励んでいるので「御休神〔ママ〕」願いたい。「次に先般御通知致置候通り去(さる)廿一日○○〔ママ〕地に上陸、夫(それ)より十五六里前進」した(六月三〇日付)とあるように、自身の無事と「○○地」(塩大澳)上陸といった近況を伝えている。そして手紙の末尾を、「御地(おんち)の御様子委(くわ)しく御通知」願いたい、という文言で結んでいる。「委しく」といったところに、出征兵士である彼の郷里・家族に対する一方ならぬ関心の強さがうかがえる。一般的に農家にとって基幹的な働き手となる長男の出征は、自家の経営面で大きな痛手になった。郷里や家内のようすを「委しく」伝えて欲しいと依頼していたのは、農家出身の兵士である力太郎がそうした心配を抱えながら戦地に赴いたことによるものと解釈することができる。
およそ一〇日後の七月一一日、ようやく書簡が神山家に届いた。今度は勝三郎が力太郎に返書をしたためている(近現代編史料集⑤ No.六一 図2-28)。勝三郎は冒頭で、力太郎から無事を知らせる書簡が送られてきたことについて、「家内一同隣家親族に至るまで欣喜(きんき)拝読す。貴君御地にて御無事軍務に罷り在り候の報に接し皆々万歳三唱して喜び居り候」と記している。遠く離れた戦地の力太郎から書簡が届いたことは、勝三郎をはじめとする神山家の人たちを狂喜させた。そのことは、家族内にとどまらず「隣家親族」にまで及んでおり、郷里の人たちにとって出征兵士の消息がいかに大きな関心事になっていたかをよくあらわしている。
図2-28 神山力太郎宛神山勝三郎書簡 (1904年7月12日付)
小平市神山和平氏所蔵
書簡のなかで勝三郎が伝えたのは、大きく分けると、養蚕と農事、村のようす、家族の近況の三点であった。養蚕と農事については、「明治三十七年度養蚕の景況。本年は当地方辺に於ては養蚕は不結果なれども小生宅に於ては普通より上結果、繭は七拾貫とれました。福生笹本製糸場売込ました」、「農事記す。大麦は七月七日ぶちました。俵数四十五俵、例年より上結果。小麦は七月六日ぶちました。二十俵」、「各事宜敷候間御安心」願いたいというように、自家の養蚕経営と畑作経営の状況がつぶさに伝えられている。『東京府管下時局状況一班』(一九〇四年度末調査)によると、養蚕の「不結果」は、「気候の不順なりしと召集の為め人夫の不足を来し飼養方に欠くる所ありしに依り病斃蚕を生じ収繭を減した」ためと報告されている。一方、大麦は馬糧として、甘藷(かんしょ)(さつまいも)・馬鈴薯(ばれいしょ)(じゃがいも)・蔬菜類は缶詰や乾燥用の軍食として買い上げられたため、「価格騰貴し生産者の利益尠(すくな)からずして此等農家の経済は平年よりも大に好都合なり」とある。開戦にともなう兵力動員が養蚕に必要な男子雇用労働力の減少をもたらす傍ら、軍需用の農産物価格が高騰するなど、日露戦争が当時の農村経済に多大な影響を与えたことがわかる。
二点目の村のようすについて勝三郎は、「村内にても日露開戦以来軍人出征せらるに付、兵事義会を設置し戦功に依り旗行列を致す都合の運動を致し居れり」と記している。『東京府管下時局状況一班』によれば、小平村では小平村兵事会(会長・高橋恭寿)が組織され、一九〇五年三月末現在の支出は七九七円(慰問費七三七円、吊祭費六〇円)となっている。旗行列をはじめ、出征兵士・留守家族に対する慰問や葬儀が実施された。このほか、小平村を含む北多摩郡の八町村では「大字若(もしく)は各組に於て労力扶助を行ふ」とあることから、応召によって農繁期の貴重な働き手を奪われた農家に対して、字・組など地域ごとに「労力扶助」を計画・実施していたことが読み取れる。
三点目は家族の近況で、「妻子供の履歴。妻ヨシ弟壮健にて農業に従事す。正作利平両人も皆無事」に過ごしている、「其他家内も皆無事に暮し居」るので「御休神〔ママ〕乞ふ」とある。最後に勝三郎は、「家内の事は決して心配」せずに、「貴君は他国の事気候不順戦地の事故御身体御養生専一のみならず、貴君の無事戦功あらんことを伏て神に向ひて祈り居候」と結んでいる。自家の養蚕・畑作の経営状況、村のようすに加えて、戦地にある息子の身の安全を祈り、後顧の憂いのないよう家族の無事を知らせること、これが留守家族が兵士に宛てて送った書簡の大きな特徴であった。
先の台湾赴任時と同様、力太郎は郷里の友人・知己とも盛んに交信をおこなっている。藤野滝三郎の書簡(七月一五日付 図2-29)では、「麦作は意外の豊作に候。養蚕は気候激変の為七分作位繭の相場は昨年より一円安位に候」など農事・養蚕の様子を伝える一方で、「軍事公債は当村より第一回壱千五百円応募す(但し小平村)。金融界は殊の外匹迫せり」というように、国債募集と景気の動向についても言及している。およそ二〇億円という莫大な戦費を要した日露戦争では、国民に対する増税、総額の約三―四割を占めた外国債に加えて、強制に近い国債募集が大きな比重を占めていた。国債募集は、政府から府県、郡市、町村という行政組織をつうじて応募高をきめ、割り当てたものである。割り当ては当然、小平村にも振りかかってきたことが読み取れる。
図2-29 神山力太郎宛藤野滝三郎書簡(1904年7月15日付)
小平市神山和平氏所蔵