図2-30 神山力太郎宛宮寺重五郎書簡 (1904年7月20日付)
小平市神山和平氏所蔵
周知のとおり、旅順での戦闘は熾烈を極め、夥(おびただ)しい数の死傷者を生み出すことになった。九月一九日、力太郎の部隊にロシア軍の前進堡塁(ほうるい)に対する攻撃指令が下った。力太郎の部隊が攻撃したのは「趙家屯東方高地」、すなわち「二〇三高地」である。戦闘終了後、郷里の父に宛てた書簡(九月二七日付)には、戦場のようすが生々しく描写されている(近現代編史料集⑤ No.六六)。「此砲台は実に堅固なる砲台にして頂上には砲四門有其少しく下りたる処に堡塁を築き、其材料は尺角(しゃっかく)を以て二段に積み其上に南京米(なんきんまい)の袋に砂利を詰め土を積み其上には鉄板の金を張」っていたので、「吾が砲兵数発砲撃せん共少しも功なく」苦戦する。部隊は日没を待って砲台の真下まで前進したが、「敵と吾が歩兵と凡そ七八米突(メートル)にして敵は吾に(バクレツ丸)を投じ其故(それゆえ)に死傷尤(もっと)も多し。其真下に有りて五日間戦闘」に従事した。その後「十中八九迄占領したる者と思ども中々敵は勇壮にして少しも退却」しない。「其内敵の砲兵吾軍の右側面に砲を構へ直(じか)に砲撃され」たので、やむなく「重傷者死者等を打捨て前位置迄退却」した、という内容である。この戦闘には、第三軍の第一師団、第九師団、後備歩兵旅団が参加したが、なかでも力太郎の所属する後備歩兵旅団が最も多くの死傷者を出している。
その頃、小平村では、「旅順口陥落次第燈籠を立て上に国旗を交叉(こうさ)して一日の一大祝日に」(八月二五日付宮寺利平書簡)すべく準備を整えていたほか、九月には遼陽占領に際して、「当村祝捷会(しゅくしょうかい)を催す。即(すなわち)戸毎(燈籠)を点じ外それぞれ催しあり」(九月一六日付藤野滝三郎書簡)など戦争にかんする祝賀行事が度々計画・実施されていたことを示す記述が散見される。さらに、「軍人諸君の防寒用として毛布を寄贈者多し。〔中略〕君よ何でも送るから用品を手紙に書て寄してくれよ」(一〇月二六日付宮寺利平書簡)というように、郷里の人たちは戦地の兵士に対して毛布・防寒具などの物資や慰問品を送り続けた。小平村兵事会は、村出身の出征兵士に対し慰問状を送付している。
一方、村出身兵士のなかから戦死者が出始め、旅順にいる力太郎のもとには、八月に遼陽で戦死した宮寺藤五郎(小川一番)の葬儀が執りおこなわれたことが伝えられている。葬儀のようすは「先づ第一番に楽隊、次に吊旗六流、次に白提灯、造華三対、生榊二対、吊旗二流、御霊柩、兵友会見送人、小平兵事会、府知事、郡長、府会議員、郡会議員、郡役所、愛国婦人会、各町村長、村会議員、親戚、其他有志にて無慮三千名見送人」(一二月二五日付宮寺利平書簡)とある。葬儀は楽隊を先頭に、知事をはじめとする府・郡・町村の有力者や多くの村民を巻き込む実に盛大なものであった。
旅順の戦局は、第三回総攻撃によって二〇三高地を占領したことで日本軍が優位に立った。総攻撃の最中、力太郎が神山家に送った書簡では戦闘のようすが伝えられたほか、「二〇三砲台の略図送る。松樹山二竜山安子山小子山砲台略図送る。是の図は紀念の為大切に保存」して欲しい(一二月四日付)とあり、手書きの図面が添えられていた。さらに「支那菓子四つ送」るので「家内中並に子供にて食すべし。其菓子の味は一つ一つに異(ちがい)ます」というように、力太郎は戦地から図面のほかに「支那菓子」を送っている。この第三回総攻撃では、森田新平(小川一番)と石井英芳(野中西)の二人が戦死している。
図2-31 203高地略図(神山力太郎画)
小平市神山和平氏所蔵
一九〇五年一月二日、守将ステッセルは降伏・開城し、旅順が陥落した。翌日、力太郎は旅順陥落の第一報を神山家に知らせるために筆をとっている。書簡によると、力太郎の部隊は、「元日の午前三時出発にて老鉄山麓の全部の敵を攻撃」、「午後四時に至り全く其地を占領」した。「第十一師団は吾が前面の麓を占領すると同時に旅順市街に突撃す。依て旅順死守するステツセル将軍も遂に落胆を極め、二日午前二時に至り敵の軍使が吾が警戒線に来り降参を願直(ただち)に休戦致し談判終局」となったのである。このあと、力太郎のもとには郷里から旅順陥落を祝う書簡が続々と届けられている。