奉天会戦へ

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旅順が陥落すると、日本軍は、ロシア軍の主力と司令部が置かれている奉天の周辺に全兵力を集結させた。力太郎の部隊は、奉天会戦に参加するため、二月四日に旅順を出発している。その少し前、一月一八日付の書簡で力太郎は郷里の父に対し、「旅順陥落者(は)全(まっと)ふせしも又もや遼陽ふ〔ママ〕近に出張の予定に御座候」と、部隊の行動予定を伝えている。力太郎の部隊は北進を続け、二四日には奉天付近に到着した。勝三郎宛の二五日付の書簡では、「当地は旅順と異ひ寒気甚敷(はなはだしく)して口より霧にて髦並にまゆげは氷りまつげも氷(こお)りて目をとじ実に驚くべき寒気なり」とある。遼東半島の先端に位置する南方の旅順に比べて、満州の「寒気」は体毛が凍るほど甚だしいものだったことが読み取れる。奉天周辺に集結した両軍の兵力は、日本軍二五万人に対してロシア軍三二万人で、三月一日、奉天会戦が開始された。
 力太郎の後備歩兵第一連隊は、ロシア軍を左翼から攻撃するため、三月三日、奉天の西南に位置する長灘(ちょうたん)に移動する。九日には、奉天の北方まで到達し、田義屯(でんぎとん)においてロシア軍と戦った。丁度その頃、郷里の神山家には、二五日付で力太郎から書簡が送られてきた。勝三郎は三月一二日付で返書をしたためている。この書簡では、「貴殿無事の由唯々(ただただ)安心いたし拙家にても別条」なく「小供等迄皆無事」なので「御安心」願いたいというように、力太郎の無事に安堵する傍ら、家族が平穏にくらしている旨を伝えている。続けて勝三郎は、「此度の奉天地方の大戦にては如何に御座候也。貴殿初め村内の戦友無事なるや否や此書面着次第」伝えて欲しいと依頼したほか、「組合向方五六戸にて七日間の神心に預り候守札(まもりふだ)差入候。御受取」願いたい、と述べている。勝三郎は、奉天会戦がこれまで以上に大規模な戦闘になることを知っていた。それだけに力太郎や村内の出征兵士の消息が一層気にかかっていた。「組合」内(小川一番)で彼らの無事を祈願する「守札」(御札)を封入したのはそのあらわれにほかならない。留守家族をはじめとする郷里の人たちにとって兵士の安否ほど気にかかることはなかった。
 しかし、力太郎がこの書簡を読み、御札を手にすることは遂になかった。三月九日、彼は田義屯の戦闘で頭部に砲弾を受け戦死したのである。ロシア軍総退却により、日本軍が奉天を占領したのはその翌日のことであった。力太郎の戦死は、戦地の上官や兵士によって郷里の神山家に伝えられた。奉天会戦では、力太郎のほかにも、鈴木丑五郎(小川新田上)と川窪滝蔵(同前)が戦死している。
 日清・日露戦争後、小平村には遺族や兵事会によって戦争記念碑が建立されていく。凱旋兵士を讃え、戦没者の慰霊・顕彰をおこなう戦争記念碑は、地域のなかで戦争体験が共有されるうえで重要なものであった。近代日本の帝国主義的膨張と切り離すことのできない対外戦争は、日本国内の地域にとって国家と軍隊がより身近なものになっていき、国民としての一体感が強まる一つの契機であった。それはこの小平でも同様であり、多くの人たちが戦争に従軍し、家族や地域が兵士を支えるなかで形成されていったといえる。なかでも日露戦争は、戦争の規模それ自体だけでなく、戦争や戦死者にかんする郷里の人たちの活動がより活発化した点に特徴があった。