一九〇一(明治三四)年一月、回田新田の青年達が青年会を結成した。結成の動きは一八九七年にはじまっていたという(近現代編史料集⑤ No.七〇)。結成時に制定された「青年会会則」が残されている(近現代編史料集⑤ No.六八)。この会則をみると、結成に際し、小平村が拠点となっていた正義青年会と神奈川県実業者相談会の二つの組織(本章第二節3)が意識されていたことに気づく。第一条では、青年会の目的を「会員間常に親睦して相互に知識を交換し、智力の発達を謀る」としているが、これは「会員相互に交通信愛して青年の智徳を上進せしむる」とした正義青年会の目的の「徳」を削って「智」を強調したものとなっている。政治性が強かった正義青年会が「徳」を重視したのに対し、回田新田の青年会は、その政治性を否定し「知識」を学ぶことを重視したのである。具体的な事業として会則は、その原案で「学事及実業的殖産興業の法方〔ママ〕を講究」することと「講習会」「夜学会」の実施をあげ、前者を抹消している。前者は実業者相談会が重視していたことで、最初はその方針を引き継ごうとしていたが、議論の結果、それを否定したことがわかる。回田青年会の結成は、小平村で大きな影響力をもっていた吉野派の二つの組織が有していた性格を意識したうえでの決別であったといえる。このことは青年会の組織対象の変化とも関連している。原案では「有志の男子をもって組織す」となっていたが、その部分を抹消して、回田新田に居住する一五歳から三五歳までの男子と変えている。有志組織から、居住者の全青年を対象とする組織への変化である。政治性を否定したことが、地域の全青年を組織することを可能にし、そのことが、青年本来の属性である「学び」に特化させた組織とすることを必要としたのである。
図2-32 回田青年会会則 1901年1月
しかし、「回田新田青年会文書」のなかには「講習会」「夜学会」の史料はなく、現役兵慰労、恤兵(じゅっぺい)(戦地の兵士に金品を贈ること)、新年宴会、桑園の史料が残されているだけである。また、青年会解散時の功労者表彰の「祝辞」は、創設以来「入営者の送迎に尽し、或は外征軍人の恤兵慰問を為し、協同一致各自の修養を計り、又四十二年三月、桑園試作場を設け、共同心の養成と専用桑園の利益を示し、兼て資金の蓄成を計り、農蚕の改良発達に資し」てきたと述べている。実際には、出征兵の送迎、出征兵への慰労金の贈呈、恤兵慰問など、兵役という新たな負担に対する青年同士の支え合いの組織として、まずは機能したのであろう。そして、一九〇九年からは、活動資金の確保と「農蚕の改良発達」をはかるため、桑園試作場の設置という新たな活動に乗り出したのである。青年達の活動は相互扶助の段階から、地域の経済的発展に資する活動=村を支える活動へと広がったということができる。