在郷軍人団から在郷軍人会へ

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日露戦争末期の一九〇五(明治三八)年の中頃、小平村在郷軍人団が結成された。これは日清、日露戦争に出征して帰京した在郷軍人が、「郷兵を基礎とせる尚武団体の設置の必要を痛感」して有志の間を歴訪し、結成に至ったものである。しかし、その組織化は歓迎されたわけではなく、「非難攻撃」があったという(『帝国在郷軍人会小平村分会史』)。在郷軍人による新たな団体の結成は、それまでの村の秩序を破壊するものとして警戒されたのであろう。
 一九一〇年一一月、陸軍の指導によって帝国在郷軍人会が結成された。そのとき、在郷軍人団は進んで連絡を取り、帝国在郷軍人会発会と同時に「小平村在郷軍人分会」と改称したという。その結果、それまで運営資金は、一人二〇銭の拠金のみに拠っていたが、村からも五〇円の補助金が出るようになった(拠金は三〇銭に変更)。帝国在郷軍人会の分会となることによって、村を支える団体として正式に認められるようになったのである。青年会の一員として出征し、帰京して在郷軍人となって在郷軍人会の運営に携わった人物は、その後、村を支える人材となっていく。一九二九(昭和四)年現在において、初代分会長であった佐藤亀作は村会議員、二代目の荒川伊三郎は在職中に病没したが、三代目の古田梅吉は消防組の組頭、四代目の福島平四郎は消防小頭、五代目の久保田忠次郎は消防組第九部長、村会議員となっている。分会長から消防組幹部へ、消防組幹部から村会議員へというのが、一つの典型的な流れであったようである。これまで村を支えていた「名望家」層とは異なる村民が、村のリーダーとして活躍するようになるルートとして、青年団、在郷軍人会という団体が機能するようになったのである。
 『帝国在郷軍人会小平村分会史』(一九三〇年)は、分会の沿革を記した最後の箇所で、「今や自治村として青年団と共に欠くべからざる団体として進みつゝ」あると述べている(近現代編史料集⑤ No.七一)。また、村長の小川良助は「本書の作成に当りて」のなかで、「団体の結合が自治体としての骨枝」となり、「団体の平和なる発達」が「自治村発達に欠くべからざるもの」となるといい、「在郷軍人分会の発達は、申すまでもなく自治村発達として表れ」ると書いた。昭和の初期には、団体が村を支える基礎となり、その団体のなかでも青年団と在郷軍人会が重要な役割を果たすようになったとの認識が定着していたのである。

図2-34 帝国在郷軍人会小平村分会史目次 1930年