村内の罹災状況

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一九二三(大正一二)年九月一日に起きた関東大震災にかんする「永久保存」と記された「大正十二年 震災関係書類」(簿冊)が小平市には残されている。この簿冊から、震災時の小平村の状況を知ることができる。まず、小平村内の罹災状況についてみておきたい。

図2-35 「震災関係書類」 1923年

 郡長からの罹災状況調査の指示が村長に届いたのは九月二一日のことであった。この指示に対し村長は、全壊家屋は「納屋其他」が一棟、半壊家屋は「住家」一棟、「倉庫」一棟、死傷者は「軽傷」二名と回答した。一〇月一日には、あらためて「調査標準」を記した状況調査の通達が届く。この「標準」では、罹災戸数の基準を「現住家屋」としたため、回答は「半壊戸数」一棟、「負傷者数」二名となった。一一月二一日に天皇より「罹災者賑恤」のために一千万円が下賜されると、その恩賜金配布のため、罹災者の調査があらためておこなわれることになった。この調査は、それまでの調査とは異なり、公示して「相当の証拠」を添えて罹災者に申告書を提出させる、という方法でおこなわれた。その結果、「半壊」一棟、「負傷者」三名となった。負傷者がそれまでの調査では一名漏れていたことになる。このときの申告書が簿冊には綴られているので、具体的にみておきたい。
 「半壊」は小川新田の「石造家屋」一棟である。「負傷者」は三名とも小川の女性で、年齢は九〇歳、七六歳、七一歳であった。九〇歳の女性は「崩壊せる土蔵の壁土に圧せられて負傷」し「稍々重傷」、七六歳の女性は「傾倒せる器物に撲たれて負傷」し「重傷にあらずと雖尚診療約半ヶ月」、七一歳の女性は「地に墜落」して「稍々重傷」である。これらの申告書から、石造、土蔵の建造物が被害を受け、老女に怪我人が出たことがわかる。この調査から判明する小平村の被害は、前述の「納屋」「倉庫」を入れても六件ということになるが、対象はあくまでも、建造物は「現住家屋」であり、負傷者は「一週間以上医師の治療を受けたる者」であった。先にみた「回田新田青年会会議録」には、震災の際の記事に「氏神鳥居破壊に付、修繕の際は金参拾円を寄付」との記述がある。鳥居も被害を受けていたのであり、六件以外にも、もっと被害はあったと考えられる。なお、公的な道路や橋梁などの被害状況は別調査がおこなわれており、表2-11に示したように、一〇件の損害が報告されている。
 
表2-11 関東大震災による道路・橋梁の被害
場所被害箇所・状況損害費
三番組若林善蔵側道「下水及飲用水の橋破開」10円(9円)
加藤小次郎側「下水及飲用水の橋破開」30円
福田音五郎西側道路に架かる橋梁50円
学校道山家出口橋梁50円
学校道田無堀分橋梁30円
三左衛門橋南端「道路と橋梁との中間に穴」10円
小川停車場より村山水車へ通ずる野火止用水路「橋両側の土囲崩落」50円
小川停車場より天王森三家軒に通ずる道路の中野火止用水路べり「陥落」55円
六番組吉沢福太郎わき道下水橋梁9円
七番組清水櫛五郎わき道下水橋梁12円
(出典)「(関東大震災損害調書)」「大震災ニ付道路橋梁破損害見積高」より作成。