村内避難民への支援

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九月七日の北多摩郡町村長会では議題とされなかったが、その四日後の一一日、郡長より村長宛に「避難民調査に関する件」が届いた。これは「避難者総数」と、そのうち「親戚知己に寄れるもの」と「親戚知己に拠らざるもの」の人数の調査を求めるものであった。これに対し、村長は「避難者総数」二七五名、「親戚知己に寄れるもの」二七五名と報告した。小平村への避難民はすべて、小平村と何らかのつながりを持つ人びとだったことになる。さらに三日後の一四日、郡長は「避難民救助の件」を発し、「親戚知己の救助に頼るにあらずして、只安全なる地区を指して逃れたる者等」は困難多大であろうから、「地方各種団体又は有志者等に於て適宜なる方法を講せらるゝ様」要請した。まずは、親戚知己に頼れる者は親戚知己に任せ、頼る所がない者の救助は各種団体、有志者の善意に期待したのである。
 九月一九日になると、「避難民中救護を要すべき者調査の件」が届く。これまでの「親戚知己に寄れるもの」か否かの基準ではなく、「救護を要すべき者」か否かの基準での調査が求められることになったのである。そして、二一日に出された「避難者救護に関する件」では、「全く生活の途なく救護の必要ありと認めたる者」に対して、食糧品を配給することになったことが通達され、救護が必要だと認めた者の台帳を作成して提出するように求めた。問題は「救護を要するもの」の基準であるが、「万一にも濫給に渉らざる様」との条件をつけてはいるが、「認定に就ては貴職に於てこれを為し」とし、村長の判断に一任されることになった。この各村長の判断にゆだねるやり方は、配給の不公平を生み、結局、配給方法の再検討がなされることになる。
 小平村では九月二五日に「要救護者台帳」を作成し提出した。このとき、台帳に記載された「要救護者」は一二九名であった。このときの避難者総数は記されていないが、九月一三日の調査が二七五名、一〇月二日の調査が二四五名であったことから考えると、避難者の約半数を「要救護者」に認定したことになる。各村からの認定者が予想を超えるものであったからであろうか、二七日、郡長は府より申し入れがあったとして「避難者救護に関する件」を発し、「救助を受くべき者は、罹災者中自力又は他の扶助に依り其の生計を維持すること能はざる者に限ること」「要救護人員は実地に精確なる調査を為」すことを指示し、あらためて「濫給に渉らざる様」求めた。そして、「就業の方法を講せられ、以て救助所要人員の減少に努むること」を求めた。配給はこの指示があった二七日からはじまったが、この日の「救護人員」は九四名であった。実際に郡役所から受け取った配給米として記録されているのは八八名分である。台帳記載の「一二九」と、この「九四」「八八」の数字のずれについては理由はわからない。なお、配給品は米が基本であったが、そのほかに漬物(沢庵(たくあん)、薤(らっきょう)、味噌漬)、醤油、味噌、塩、缶詰、衣類もあった。「救護人員」のその後の推移を示したのが図2-36である。一〇月中旬までは増加していくが、その後、減少していくことがわかる。この減少は、避難民そのものの減少によるものであったことが、図2-37の避難民の推移から確認できる。「要救護者台帳」には、配給中止の理由が記されているが、そのほとんどは「上京」であった。一〇月中旬頃から、被災地へ帰る動きが出はじめたのである。

図2-36 小平村の「救護人員」の推移


図2-37 小平村の「避難民」数の推移

 被災地へ戻る動きが出はじめていた一〇月二三日、郡長発の「震災調査に関する件」が小平村長に届く。この通達では「他町村に於ては罹災者中要救護者は一割に満たざるものこれ有る実情なるに反し、貴村に於ては歩合著しく多く、甚敷均衡を失する」と、「要救護者」の認定基準が甘いことをきびしく指摘され、「整理」が求められた。二七日には、二九日におこなわれる「主任会」に、一〇月二八日現在の「救助者員数調査表」などを持参することを求める通達が届いた。そして、主任会では新たな方針が示される。「災後数十日を経過し秩序も回復したる現今、猶救助を継続するに於ては却て遊食惰民の風を馴致する」ことになってしまうので、救助は「必要やむを得ざる範囲」にとどめ、罹災者の就業の途を講ずることにしたいとしたうえで、従来の救助は一旦打ち切り、なお救助を必要とする者は、申し出にもとづきあらためて調査し、認定するよう求めたのである。そして、その基準としては、「他に扶養なく自活困難」の者などをあげた。この結果、これまでの救助は一〇月いっぱいで打ち切られることになった。小平村では、このあと新たに救助の認定を受けた避難民はいなかった。ほかの村も「要救護者」は激減したようで、北多摩郡は一九二四(大正一三)年一月一〇日前後で救助を打ち切った。