来(きた)れ来れ、自然の美に接し度(た)き都会人士(じんし)よ、田園には自然の音楽あり、新鮮な空気あり、新しき野菜は無尽蔵にあり、この楽園は、長寿を願ふ君達を一日千秋の思ひで待って居る。実際田園の趣味は筆や口では言ひ尽くせぬ、上戸の酔ざめの水の味が、下戸(げこ)に解せぬと同じ事で、接してみなければ到底判らない。
来れ来れ、そして趣味深い田園生活を実際に味はへよ。(北多摩郡小平村馬場春男)
来れ来れ、そして趣味深い田園生活を実際に味はへよ。(北多摩郡小平村馬場春男)
この文章は「都会人士」に対し、「自然の音楽」と「新鮮な空気」、そして「新しき野菜」にあふれる「趣味深い田園生活」に触れることを呼びかけている。都市住民にとって「自然」の価値が再発見された時代にあって、郊外農村の住民自身もまた、「田園生活」の意味を再認識している文章であるとみることができる。
図3-1 『東京府農会報』第102号表紙(写真は小平村の甘藷収穫のようす)1925年6月
産業革命が進展した一九世紀から二〇世紀への変わり目の時期、騒音、煤烟(ばいえん)、過密など、都会の生活環境の悪化が目立つようになり、郊外の自然とそこで営まれる「田園生活」が、新たな価値をもって捉えられるようになっていた。たとえば国木田独歩は一九〇一(明治三四)年に『武蔵野』を発表して、武蔵野の自然美を新しい感受性で捉えた。そのなかで独歩は「郊外の林地田圃に突入する処の、市街ともつかず宿駅ともつか」ない「町外れ」において、「大都会の生活の名残と田舎の生活の余波とがここで落ちあって、緩やかにうずを巻いている」ことを肯定的に捉えてみせた。「大都会」と「田舎」の境界領域である郊外に独特の価値を見いだす立場を表明しているのである。
ちょうど同じ頃、イギリスのハワードは、労働者の悲惨な住環境を改善するために都市と農村の魅力をあわせもち、産業と良好な生活環境とを兼ね備えた職住接近型の「田園都市」を建設すべきであると提言し(『明日の田園都市』一九〇二年)、その構想は日本にも紹介された。田園都市とは自立的、自己完結的な都市のイメージであって、ベッドタウンではない。それは仕事とくらしの場であり、人間と自然の共生の場であり、住民の自立と共同による自治的コミュニティであり、したがって社会問題解決のための手段として建設されるべきものであったのだ。
ところが日本では田園都市という言葉は、労働者のための職住接近型都市という本来の理念から離れて一人歩きしていった。渋沢栄一は「田園都市株式会社」を設立(一九一八年)して、荏原郡調布村の田園地帯に宅地を開発し、省線(鉄道省の電車線)に接続する鉄道を敷設して、都会ぐらしの中流に向けて宅地分譲を開始した。そのパンフレットには、「煤烟飛ばず塵埃揚(じんあいあが)らず、真に絶好の保健地! 常住の避暑避寒地!」「田園郊外の趣味を享楽し併せて文明の施設を応用できる地は他にはありません」として、都心への通勤を前提として「田園郊外の趣味」と「文明の施設」が整っていることを、田園都市の利点としてうたっている。こうして「田園都市」という言葉とともに郊外の住宅地には、環境が悪化した都会を離れて、都心に通勤するサラリーマン家族が住まい、良好な環境のなかで私生活を追求する空間、というイメージが与えられたのである。鉄道会社や土地会社はそのイメージを利用しながら、郊外に電車を敷いて沿線住宅地を開発し、あわせて学校を誘致し、行楽地・遊園地を経営するという郊外開発を推し進めるようになったのであった。
先の「田園の趣味」という文章を書いた小平村の農民が、こうした時代状況をどこまで見通していたかはわからないが、小平村の未来が「都会」との関係で大きく変わるであろうことを予感していたのではなかろうか。実際、小平村はその後「大東京」の影響圏に組み込まれていくことになった。