一九二三(大正一二)年の関東大震災をきっかけに、東京の都市構造は大きく変容を遂げた。震災で壊滅的な打撃を受けた都心や下町地域では、大規模な土地区画整理事業がおこなわれ、東西(大正通り)と南北(昭和通り)の幹線道路をはじめとした街路の整備・拡張が進み、街並みが整備された。丸の内や有楽町にはオフィス・ビルがたち並び、銀座や新宿にはデパートをはじめ、モダンな流行を発信する商店や映画館、劇場、カフェなどがたち並んだ。震災義捐金の一部を利用して設立された同潤会は、中流向けの近代的なアパートを建設し、新しい都会のライフスタイルを生み出した。しかし、震災で減少した東京市域の人口は、回復するまでかなりの時間がかかり、その後も横ばい傾向が続いた。
一方、震災後は目覚ましい勢いで人口の郊外化が進行した。一九二五(大正一四)年に市内一五区と周辺五郡(荏原郡、豊多摩郡、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡)の人口が逆転し、後者の人口は二五年からの一五年間に二・二倍となった。市内からの移動人口だけでなく、地方から東京へ流入する人口を周辺五郡が吸収していったのである。都心や下町が復興事業で計画的に街路が整えられる一方で、郊外では前述のような郊外住宅地も誕生したが、多くの場合無計画なままスプロール状に宅地化や工場立地が進んでいった。
こうした人口の郊外化はそもそも、第一次世界大戦前後に急速に進んだ産業の高度化(重工業化と第三次産業の発展)と都市人口の増大、とりわけ職住分離を前提とした雇用労働者(サラリーマンや工場労働者)の増大という社会構造の変化がもたらしたものであった。そして郊外電車が発達し、人口の郊外化をさらに推し進めた。震災後の一九二五年に山手線が環状運転を開始し、二八(昭和三)年には中央線が中野までの複々線化を完了、翌年には立川まで電化するなど、省線電車の利便性と輸送力が向上した。また山手線の渋谷、新宿、池袋を起点として、西郊へ延びる私鉄電車が発達し、私鉄電車と省線とを乗り継いで郊外の住宅地から都心部に通勤する者が増えたのだった。
東京市に連続する都市域は、行政区画をこえて隣接五郡に及んでおり、それを含めて「大東京」と呼ばれた。行政区画と実際の都市域とのズレを解消し、一体的・総合的な都市政策をおこなうため、一九三二年一〇月一日、東京市は隣接五郡八二町村を市域に編入して、それまでの一五区に加えて新たに二〇区を発足させた。人びとは「大東京市」誕生と呼んで、それを祝福した。
さて大東京に隣接する北多摩が、以上のような関東大震災後における東京の変化の影響を受けたことはいうまでもない。北多摩郡の人口は一九二〇年に一〇万九千人、一九三〇年に一六万四千人、一九四〇年に二六万四千人と増え、一〇年間の人口増加率はそれぞれ五〇・四%、六〇・一%であった。東京府全体に占める割合はまだ小さいとはいえ、増加数・増加率ともに三多摩地域でもっとも高い値である。これは非農業人口の増加によるものであり、北多摩地域の都市化・郊外化の進展をあらわしている。
産業化と都市化が進展した二〇世紀は、同時に郊外開発の時代であったといってもよい。都市の拡大とともに、周辺農村は郊外化・都市化への対応に迫られることになった。小平地域の場合、関東大震災後にそのような時代にさしかかっていた。在来産業の「改良」に地域主体で取り組むことで、地域の「進歩」をはかるというそれまでのあり方とは別に、外部からの「開発」の論理に将来を託すという選択肢があらわれてきたのである。それが次節に見る小平学園開発である。