堤は関東大震災後の学校の郊外移転に着目し、一連の学園都市を構想した。神田からの移転を計画していた東京商科大学(現在の一橋大学)を誘致するために、北豊島郡大泉村(現在の練馬区大泉)の用地を買収し、同大学を中心とした大泉学園都市の建設に着手した。大泉学園都市約五〇万坪の分譲は一九二四年一一月にはじまった。第一回から第三回の分譲は即完売し、売れ行きは好調であった。後述するように国分寺大学都市の計画は、大泉学園の分譲とほぼ並行して進められた。箱根土地の営業報告書(一九二四年下期)には、「本社ハ近ク国分寺方面ニ建設スベキ大学都市分譲ノ計画アリ之レ亦業績ヲ見ルベキモノアルヲ確信ス」と記載されている。ところが、一九二五年九月、東京商大は、大泉ではなく北多摩郡谷保村(現在の国立市)に移転することを決定し、大泉学園都市計画は暗礁に乗り上げた。
図3-2 国分寺大学都市の分譲地区画図(第1回分)1925年頃
プリンスホテル所蔵