小平村への移転をいち早く計画したのは女子英学塾(現在の津田塾大学)である。同校は、一九〇〇(明治三三)年に津田梅子により設立された日本で最初の女子高等教育機関であり、一九〇四年に専門学校令にもとづく専門学校となった。同校では生徒の増加に対応するために震災以前より東京市麹町区から郊外への移転を計画しており、箱根土地が開発に着手する前の一九二二(大正一一)年一一月に小平村小川字鷹野街道外一四九一番から一五二五番に約二万五千坪の移転用地を購入した。関東大震災で校舎が全焼した後は焼跡の仮校舎で授業を再開し、津田梅子が内外からの寄付を募るなどして小平村への移転の準備を進めていた(近現代編史料集⑤ No.九八)。
続いて小平村への移転計画が持ち上がったのは明治大学である。関東大震災で神田駿河台の校舎がほぼ全焼したため、学内に設置された復興審議会では再び災害が起こった際の危険を考慮して郊外への移転の方針が立てられた。移転にかんして理事会・商議員会では賛否が分かれたが、明治大学の出身で当時同大学の理事を務めていた箱根土地社長藤田謙一の働きかけもあり、小平村に土地を購入して移転することが決定された。
図3-3 学園分譲地と明治大学建設予定地の看板
1928年2月 プリンスホテル所蔵