一九二六(大正一五)年に入って八間道路の西側の明治大学の移転用地を取り囲む区画の分譲がはじまった。ところが、明治大学では一九二五年九月の商議員会において移転にともなう資金的な問題などが持ち上がり、移転案そのものが白紙撤回され、翌二六年七月に箱根土地との契約の解除に至った(近現代編史料集⑤ No.八七)。
都市計画の中心となる大学の移転が頓挫したことは、国分寺大学都市にとって死活問題であった。しかしながら、東京商科大学学長で明治大学商議員でもあった佐野善作の発案もあり、震災後に石神井に移転していた東京商科大学予科の小平村への移転計画が浮上してきた。一九二七(昭和二)年三月、商大予科の誘致をなんとしても成功させるために堤康次郎と小川良助の名で以下のような内容の陳情書を商大学長宛に送っている(近現代編史料集⑤ No.八九)。箱根土地と小平村は、商大予科の移転が実現した場合には、①小金井桜堤の府道から大学正門までの八間道路を作ること(敷地は箱根土地より無償提供)、②学生の風紀を乱すような営業を村が取り締まること、③プールに必要な用水を提供すること、④箱根土地は予科移転の契約調印後六か月以内に電車を開通させること、⑤大学経営に不便をきたすことのないように小平村の地主一同は土地の取引を向こう一年間延期すること、以上の五点を確約するというものであった。最終的に一九二七年四月一三日に箱根土地と東京商科大学との間で、石神井の用地と小平村内の用地とを交換する契約が交わされた。こうして国分寺大学都市は、商大予科を中核とする小平学園として再出発することとなった。