女子英学塾・東京商科大学予科移転後の小平学園

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国分寺大学都市を引き継いだ小平学園の分譲地は西側に拡張され、川越線の線路にまで及んでいた。しかし分譲地の売れ行きは思わしくなく空き地が目立つ状態であった。小平学園の中央を走る多摩湖鉄道は、行楽客の増える日曜・祭日以外乗客数は少なかったため、地元では「四十二(しじゅうに)人乗り」(始終二人乗り=運転手・車掌のみ)と揶揄されていた。一日平均の乗客数は、開通直後の一九二八(昭和三)年が一九四人、一九三〇年が八六一人であった。
表3-2 多摩湖鉄道の輸送状況
 旅客人員(人)運賃収入(円)
1928年46,3695,457
1929年138,38314,333
1930年277,43735,482
1931年335,77635,749
1932年237,66420,483
1933年451,04323,883
1934年498,96324,515
1935年561,66824,750
1936年467,53828,893
1937年530,23632,698
1938年588,81230,338
1939年708,14435,856
(出典)野田正穂「多摩湖鉄道の一二年間」『東村山市史研究』第7号、1998年3月より作成。

 こうした状況のなか懸案であった女子英学塾、東京商科大学予科の小平村への移転が相次いで実施された。女子英学塾(一九三三年七月、津田英学塾と改称)は、一九二九年より防風林の整備や校舎・寄宿舎の工事を進め、一九三一年八月に竣工すると、九月より新校舎で授業を開始した。新校地の象徴となったのが鉄筋コンクリート造三階建(中央部分四階建)で、瓦葺の本館である(図3-5)。敷地内には寄宿舎も併設された。校舎までは、中央線国分寺駅から徒歩で四〇分、多摩湖鉄道桜堤駅からでも徒歩二五分かかるので、通学生のために国分寺駅から校舎までを一〇分で結ぶ専用バスを運行した(片道五銭)。

図3-5 女子英学塾本館校舎(ハーツホン・ホール) 1932年落成
津田塾大学所蔵

 一方、東京商科大学は一九三三年六月に予科本館が落成したのち八月までに移転を完了させ、九月から新校舎での授業を開始した。一九三三年時点での予科の学生数は六三七名、教員数六八名であったが、一九三六年四月に「一橋寮(いっきょうりょう)」が設置されるまで予科に寮はなかった。移転直後の『一橋新聞』によれば予科の学生九八名の下宿先は、荻窪(二六名)、阿佐ヶ谷(一五名)、吉祥寺(一五名)、西荻窪(一三名)、高円寺(一一名)、国立(九名)、武蔵小金井(五名)、中野(三名)で、多くの学生は中央線と多摩湖鉄道を乗り継いで小平まで通学していた(近現代編史料集⑤ No.九五)。

図3-6 東京商科大学予科校舎全景
たましん地域文化財団所蔵

 商大予科移転にともない一九三三年九月、多摩湖鉄道は桜堤駅と小平学園駅の間に商大予科前駅を設置した。これにより「四十二人乗り」という状況は一変し、乗客数は前年比で倍増し、単線で四両編成の電車で朝・夕はラッシュとなった。多摩湖鉄道は老朽化した車両を使用しており、発電所の故障もあってしばしば運休となった。多くの学生はそれに不満をもっており、一九三五年一〇月の予科記念祭終了後に、酒に酔った五〇数名の学生が商大予科駅に押しかけて、車両を破壊するという事件も起こった。
 なお、多摩湖鉄道はバス事業も兼営し、一九三三年から三八年まで青梅街道駅前から昭和病院前・小川一番までのバスを運行した。