(旧)西武鉄道の母体となった川越鉄道は、一九二〇(大正九)年六月に電鉄経営もおこなっていた電力会社の武蔵水電に合併された。そして一九二二年に武蔵水電が帝国電灯に合併されたことにともない、鉄道・軌道部門が分離され、川越線(国分寺・川越間)・大宮線(川越・大宮間)・新宿線(淀橋・荻窪間)の三路線をもつ(旧)西武鉄道が設立された。
(旧)西武鉄道は懸案となっていた東京の中心部への進出を実現するため、東村山・高田馬場を結ぶ村山線の新設を計画した。すると一九二三年頃から、村山線の沿線となる田無をはじめ、小平、保谷、村山、石神井、井荻などの各町村の地主を中心として、駅の誘致運動が展開された。
一九二五年一月に(旧)西武鉄道は、すでに免許を取得していた井荻―東村山間に加えて、井荻―高田馬場間の敷設免許を取得し、ただちに建設に着手した。一九二七(昭和二)年四月、(旧)西武鉄道村山線が開通し、小平村内には花小金井、小平の二駅が設置された。村山線は複線で、朝五時から夜一一時過ぎまで一日四六本の電車を運行し、小平から高田馬場までは約三〇分程度で行くことができるようになった。