海外拓殖学校は「志を海外に抱いて自己の運命を開拓し民族発展の先駆者たらんとする青年の為に必要なる語学と基礎学科とを教授し併せて社会人として緊切なる常識と剛健なる思想とを涵養せしめ以て天下有用の財を養成することを目的」(学則第一条)とし、南洋科、南米科に加え、新たに支那科を開設した。修業年限は高等小学校卒業程度の者を入学させる普通部が二年、中等学校卒業程度の専攻部は一年であった。マライ語やスペイン語、中国語などの語学科目だけでなく、法学や商業、海外事情などの諸学科目を教育するほか、農業実習にも力をいれる「半研半労の教育」をうたっていた。
海外拓殖学校設立の「賛助員」には、上原勇作、財部彪(たからべたけし)、斎藤実(まこと)、永田秀次郎、平沼騏一郎といった海軍や官界のそうそうたる人物が名前を連ねていた。また講師には拓殖大学教授の満川亀太郎と東郷実が名を連ねており、拓殖大学との関係が強かった(「拓殖語学校・海外拓殖学校に関する資料」)。
ところが経営不振が続いたのに加え、別所の急死(一九三一年六月)により休校に追い込まれた。休校中の一九三一年一一月には、寄宿舎が火災に遭うという不幸な出来事(『東京朝日新聞』一九三一年一一月四日)もあって、翌年四月、校長に東京府七区選出の衆議院議員坂本一角が就き、校名を東京高等拓殖学校と改めて再出発した。「植民に必須なる学術技芸を教授し、実習を指導し、兼ねて剛健なる思想と独立自営の精神を涵養し、身体を錬磨し、以て海外拓殖に適切なる人材を養成」することを目的として、南米科、南洋科、満蒙科の三学科を置いて、中等学校四年修了程度の青年を教育した(『最新東京男子学校案内』)。満州事変を経て、日本軍の手により満州国が建国され、満蒙開拓が国策となる状況が後押しとなって学校は存続したが、一九四〇年四月、東京高等拓殖学校は拓殖大学に買収され、小平の校地は拓殖大学予科校舎となった。
図3-7 東京高等拓殖学校付近の地図 1939年
国土地理院