産業革命の時代(明治後半)に猖獗(しょうけつ)をきわめて以来、「国民病」として恐れられていた結核に対する政府の施策は遅れていたが、大正時代になると「肺結核療養所設置及国庫補助に関する法律」(一九一四〈大正三〉年)、「結核予防法」(一九一九年)が成立し、大都市近郊など全国各地に公立の結核療養所がつくられるようになった。
こうしたなか、和田重久医師はみずからの重病体験をきっかけに社会事業を志した。貧困のために充分な治療を受けられない結核患者が多いことから、私財を投じて結核療養所の建設を決意したのである。そして「都心より遠く離れず交通便に且静寂にして気清浄、光線に充分に恵まれたるを条件」として用地を探した結果、一九三六(昭和一一)年一一月、小平村大沼田新田の約一万坪の敷地を取得して、多摩済生院を開設したのだった(多摩済生院『事業概要』)。なお結核療養所の建設過程では、地元住民による反対運動が起きることが多く、近隣の清瀬村では東京府立の結核療養所建設をめぐり、住民の反対運動が起こっていた(近現代編史料集③ No.一〇一)。しかし、多摩済生院の場合は、そうした反対運動は確認できない。
図3-8 多摩済生院の絵葉書 1941年
多摩済生医療団『創立50周年記念誌』
多摩済生院は創設の理念どおり、結核に特化した医療救護のための社会事業施設であり、国や東京府、東京市などから委託を受けた患者が多かったが、多摩済生院が独自に無料ないし軽費で入所させている患者もいた(「社会事業法の規定に依る届書」一九三八年一二月一五日)。こうして多摩済生院は、小平の恵まれた自然環境を利用して、主に貧困者を対象とした結核医療に貢献した。