広大な敷地を必要とする研究施設も郊外型の施設で、この時期二つの研究所が小平に進出した。一九三七(昭和一二)年、農林省の獣疫調査所小平分室が小平村鈴木新田に開設された。明治の殖産興業政策のもとで西洋の技術に学んで酪農や畜産の振興がはかられたが、家畜伝染病の発生に対応し、その調査研究のための施設として一八九一(明治二四)年、東京府北豊島郡西ヶ原の農商務省農事試験場内に獣疫試験室が発足した。これは一九一〇年に獣疫調査所と改称し、それが一九二一(大正一〇)年に独立して農林省獣疫調査所となった。調査・研究だけでなく家畜伝染病の免疫血清や予防液の製造および配布をおこなうなど、家畜伝染病の予防法や治療法の研究とその普及を担当する施設であった。しかし西ヶ原の敷地が手狭になったため、小平村に二万二千坪の敷地を取得(のち二万七千坪に拡張)し、施設を徐々に小平村に移設する計画であったが、種々の事情で移転が順調に進まないうちに、西ヶ原の施設は空襲で焼失してしまった。敗戦後になってようやく施設は西ヶ原から小平に完全移転し、一九四八年三月に農林省家畜衛生試験場となった。
蚕糸科学研究所は一九四〇年三月、業界の拠出金により設立された。当初研究所の施設はすべて小平村小川の敷地に建設することを計画していたが、経済統制のもとで建築材料の入手が困難となり、研究に必要な水道・ガス・電力を設備することも難しいため、急遽東京市淀橋区(現新宿区)柏木に建物付の土地を購入し、既設の建物を改造して、ここで繭や蚕糸の生産や利用にかんする科学的な研究を進めることにした。そして、小平の敷地には桑園を造成し、養蚕室も建築して、蚕糸科学研究所小平養蚕所を開設することになった(一九四一年四月)。なお同研究所は一九四二年に大日本蚕糸会と合併し、大日本蚕糸会蚕糸科学研究所となった。