小金井カントリー倶楽部

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日本のゴルフの歴史は、二〇世紀初頭に在日英国人によってはじまったが、その後ゴルファーの数も徐々に増えて、昭和一〇年代に東京のゴルフ人口は四万人を数えたという。「今までの貴族的クラブゴルフの時代は過ぎて大衆的ゴルフ時代が来た」とまでいわれたが、ゴルファーの増加とともにゴルフ場が東京近郊に増えはじめていた(『東京朝日新聞』一九三七年四月二八日)。
 一九三四(昭和九)年ごろ、ゴルフ用具の輸入商である深川喜一のもとに、小平村にゴルフ場の適地があるという情報が持ち込まれた。都心から一時間圏内の省線小金井駅に近く、松林と桑園が中心で、理想的な起伏もあるその土地をみて成功を確信した深川は、ここにゴルフ場建設を決め、一九三五年の夏から七〇人にも及ぶ地主への接触を開始した。地主を六郷ゴルフ場での見学会と接待に招き、キャディーの雇用などで地元への経済効果があることを説明した。買収交渉は約一年かかったが、地主の鳥塚勘兵衛や円成院住職の渓桂岩(のち小平村長)ら地元有力者の協力を得て進められた。養蚕を中心に農村不況の時期であったこともあって、価格面では買収者側有利にまとまり、約一六万坪の土地を平均坪単価三円で買収することができた。ただし小作地の買収では小作人との交渉が長引いて小作調停となり、買収者が換地と離作料を提供することで和解したケースもあった(近現代編史料集③ No.二四八)。
 買収に目処がつくと、深川はメジャー大会で数々の優勝歴を誇るアメリカの名ゴルファー、ウォルター・ヘーゲンに設計を依頼するとともに、ゴルフ場建設・運営の主体である小金井カントリー倶楽部を立ち上げた。倶楽部の創立委員長には大阪毎日新聞の主筆である高石真五郎を招き(のち理事長)、池貝鉄工所の池貝庄太郎(二代目)、小説家の邦枝完二、杉野学園の杉野繁一、そのほか企業経営者らが発起人に名前を連ね、代表取締役には深川が就任した。開場直前までに三二一名が会員となった(年末には四五八名)が、会員になるには一株五〇〇円の株式を購入する必要があり、やはり「大衆」には高嶺の花であったといえよう。一九三七年一〇月三日に開場式を迎えたが、時すでに日中戦争の時代であった(第四章コラム参照)。

図3-9 ゴルファーと球童(キャディー) 1938年頃
『小金井カントリー倶楽部50年史』