自然災害からくらしを守る

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一九二七(昭和二)年五月一七日午後、降雹(こうひょう)。その間わずか三〇分間、野も山も一面の白妙である。耕地は残雪に似て冷たく光っていた。一瞬にして、北多摩郡農村の富一五〇万円が奪われた。小平村の被害は、北多摩農会の調査では、桑、麦、蔬菜、茶は七割減におよんだ。とりわけ「農家の年収の七分を占める」養蚕の被害は甚大であった。蚕に与える桑の葉が雹で痛んでしまえば、蚕の飼育は断念せざるを得なくなる。「蚕児(かいこ)を捨てるといふことは養蚕家にとつてどんなに苦痛な事か、わが子をすてるやうな悲惨な気がする」と、自暴自棄に陥る農民も少なくなかった(近現代編史料集③ No.一)。養蚕の失敗は、それまでの労働が無になるだけではなかった。養蚕は種紙(紙に蚕の蛾の卵を産ませたもの)や桑の不足時は桑葉も購入しなくてはならないため、少なからざる負債を抱え込まなければならなかったのである。
 こうした自然災害に起因する凶作に対して、それまでの小平村でどのように対応してきたのか、詳細は不明であるが、一九二七年の降雹の際には、行政からの救済措置が種々検討されていた。立川蚕業取締所長の談として、郡農会による東京府へ低利資金融通の要望や罹災救助の方策、租税公課の免除などの議論が紹介されている。その結果、西多摩郡・北多摩郡の被害農村に対して、国庫から農工銀行経由の低利資金の貸付が決定し、小平村では、一万五千円を年利五分四厘、償還期間二か年で貸し付けることが決まった(近現代編史料集③ No.二/No.四)。
 一九三七年八月には、日照りが続いた。猛暑で、一か月以上も雨が降らず、陸稲や蔬菜類は枯れ、桑葉に新芽がつかず、白菜などの蔬菜の種蒔きはできず、農作物の干天地獄であった。井戸は涸れ、水騒動も起こり、人々は殺気立った。連日、村民総出の雨乞祭りがおこなわれ、各地域からは御神水をいただきに、御嶽(みたけ)神社へ雨乞いの代参が送り出された。御岳(みたけ)山へ登り、御嶽神社への祈願後、山中の七代滝の御神水を青竹筒にくみ取り、あとをふりかえらずに一目散に帰村した。せき止めた用水に神水を流し、褌(ふんどし)姿の若者が「さんげさんけ六根清浄」の掛け声とともに水を掛け合い、降雨を願った(近現代編史料集③ No.一一三~No.一一六)。

図3-11 干害を伝える新聞記事
『東京日日新聞』府下版 1937年8月17日

 一九三七年の夏といえば、盧溝橋事件で中国での戦線が一気に拡大し、若者たちが次々に入営していったときにあたる。村人総出で神社での出征兵士壮行会がおこなわれ、長い行列をつくって見送るかたわらで、雨乞神事がこちらも多くの村民を巻き込んで真剣に執りおこなわれていたのである。
 自然災害に対して、昭和期に導入した農工銀行による救済資金の融資がなされる一方で、神仏へ祈願するという旧来からの方法もなされる、このない交ぜの状態が、戦前期の小平村で起きていた光景であった。人々の心には、神仏を信じ、自然への畏敬の念がまだ強く生きていたのである。