火事と消防

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『東京日日新聞』(府下版)をひもとくと、一九二九(昭和四)年二月二〇日の誌面に北多摩郡下を「吹きまくつた 人顔もわからぬ砂塵」の光景と、火災を想定し雇い人に一滴の水さえ撒くことを制した主人の記事が目に入る。武蔵野台地の比較的乾燥した土地柄で、大きな河川がなく、冬場の烈風「あか風」が吹くなかで、火災の恐ろしさにおびえる住民の動向を伝える記事であった(近現代編史料集③ No.六)。
 小平の地は、家々が散在しているとはいえ遮るものがない広野だったので、強風にあおられてはるか遠くの火事であっても、飛び火によって茅葺き屋根の民家は火災となることがあった。火事から住民の生命と財産を守るために欠かせなかったのが、消防組の活動であった。地域の人びとが自衛のために自主的に形成してきた消防組織の歴史は古いが、全国的に組織されていく契機となったのが、一八九四(明治二七)年の消防組規則の制定である。小平村の場合は一八八九年頃に各部落に消防組が結成されたが、一九一二(大正元)年一二月に、それらを統合して小平村消防組が誕生した(「昭和四年 小平村消防組沿革誌」、第二章第四節2参照)。

図3-12 小平村消防組
小平市立図書館所蔵

 一九三五年の組員は、一五歳以上五〇歳未満の男性からなる八一一人で、人口七〇四一人、一一二八世帯の村の規模からみると、強力な組織基盤をもっていたことがわかる。一九二九年一月に「小学校高等科併置問題」(第三章第二節2参照)が起きたとき、当該部落の消防組員が辞職をして、村当局に対して抗議の意志を示したが、ここにも地域における消防組の重要さが示されている(「昭和四年 小平村消防組合沿革誌」)。
 木造の消防会館が設置されるなど厚遇を得ていた消防組であったが、装備は貧弱で、腕用喞筒(ポンプ)、高張提灯(ちょうちん)、竹梯子(ばしご)、鳶口(とびくち)、刺又(さすまた)、手桶など人力に頼るレベル、たいていは全焼に終わっていた(「消防組々織変更ノ件」)。