消火活動

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残されている消防組日誌(「小平村消防組 昭和二年日誌」)から活動状況をみてみると、農閑期に訓練がされ、正月には出初め式、火災シーズンのはじまりである一〇月には火災予防の宣伝活動(活動写真など)、年末には夜回り警備の活動がされている。北多摩郡や東京府の消防組の講習会や大会に出動することもあり、組頭などの幹部たちは多忙を極めた。そのうえ火災が発生するとただちに出動した。一九二九(昭和四)年の日誌から出動記録の一部を取り出すと、次のようであった。
二月十三日午前一時二十分、砂川村一番組ノ大火ノ際小平村消防組第四部出動其他一、二、三ハ個人ニテ出動セリ〔小学校高等科併置問題で辞職中だったためで、辞職していても個人として責務を果たしているのである――引用者注〕。
二月十五日午前十一時半頃、田無町芝久保ニ出火アリ小平村消防組ハ殆ド出動セリ
六月十六日午前四時十五分鈴木新田五百六十二番地〔人名〕方養蚕室ヨリ発火同一棟ヲ焼失四時五十分鎮火損害ハ三百五十円 当組ノ出場セルモノハ第十二、第十三、第十四、第十五、第十六、第十七、第十八部合計二百八十人 国分寺消防応援第二部第三部合計六十人 小金井消防組応援第一部、第二部、第七部計九十人

 冬の夜中、提灯と旗を掲げて装備を荷車に載せ、遠くまで走っていくのは大変だったに違いない。村外の火事であっても小平の人びとは飛び起きて出動し、また、逆に小平村内の火事には近隣町村から消防組が応援に駆けつけた。鈴木新田の養蚕室の火事は、蚕の保温のために焚く火により起きたものだが、村内村外を合わせて四三〇人もの人びとが消火のためにやってきたことに驚かされる(同前)。
 落成したばかりの昭和病院(本章第三節4参照)が、一九三〇年一月一七日の午前一時に出火して大火災となったときは、小平村の全員出動はむろんのこと風下に当たる小金井村、田無町からの全消防組はもちろん、国分寺、保谷、久留米各村の一部の消防組も応援に駆けつけ消火活動にあたった。合計すれば、火災現場には千人を軽く超える人びとが集まって消火作業に従事したわけで、その光景は凄まじいものだったろう(同前)。
 病院の火災は午前四時にいったん鎮火したが、折からの強風にあおられて六時頃に再出火し、村内消防が再出動して午前九時頃にようやく消し止めた。消防組のなかには消火作業で火傷するものも出た。この昭和病院火災での消防組の活躍に対しては、火災三日後に警視総監表彰がされて四日後には箱根土地グラウンドで表彰披露式が賑々しく挙行された(同前)。
 冬季に乾燥し強い風の吹く自然条件のもと、人びとは火事のときは互いに助け合った。そうすることが自家を守ることでもあることをよく知っていたからでもある。そして、この消防活動をとおした地域の紐帯は半径数キロの範囲に及んでいたのである。