大正末の小平村には、第一小平尋常小学校(小川)、第二小平尋常小学校(野中)、第三小平尋常小学校(回田)、そして小平尋常高等小学校(小川新田=現小平第一中学校の場所)にも尋常課程が併設されていたので、「尋常小学校」は四校が設置されていた。人口六千人、学齢期の子ども千人ほどの小平村に四校の小学校があるのは、東京府では一校平均八三七人、北多摩郡では八八三人(『東京府統計書』一九二四年度)だったことを考えると多すぎたようだが、これは村の面積が約二〇km
2あり、また広範囲に人家が散在する地理的特色から、子どもたちの通学にかかわる負担軽減という要因が働いたものであろう。とくに冬の朝は通学路に一〇cmもの霜柱が立ち、下校する頃には霜柱が溶けて一面のぬかるみとなるので、低学年の子どもの負担は大きかった。このため、村人は村財政の半分を教育費にあてて四つの小学校を維持していたのだが、なかでも第三小平尋常小学校の教室は二つだけで、複式学級で四学年が学ぶという貧弱な学習環境であった。残りの三校も、教員給与こそ村が支出したが、村に財政的余裕がないため、備品購入はもちろん、校舎の営繕も全て地元住民の負担となっていた。各校には校長、教頭、学校世話役(地域の学務委員)による教育奨励会が組織されて、学校の運営がなされた。運営費を稼ぐために有志が校舎周辺に植えていた茶木の葉を摘んで業者へ売る、また校庭内の梅の実を売却するなどの活動がなされていた。また、校舎の壁塗り、屋根の修理なども地域の人びとがおこなっていたという(「思い出を語る」『小平市教育史資料集』第六集、「小平の子どもたち」同前)。各学校は学区内の人びとに強く守り育てられてきたのである。
図3-13 第二小平尋常小学校の卒業写真 1924年
小平第二小学校所蔵
文化施設の少なかった当時、展覧会や学芸会、さらには農産物の品評会、各種の集会・講習会の会場に学校が活用された。学校の運動会は、小平村では四校合同で箱根土地グラウンドにおいて青年や女性も交えて村民全体が参加するかたちで盛大に挙行されていた(「青年訓練所時代のことなど」、「小平村連合運動会」)。