大正一二、一三年頃につくられた小平尋常高等小学校「学校経営規定」(『小平市教育史資料集』第六集)には、児童教育方針として「一、児童ニ自我ノ存在ヲ自覚セシムルコト 二、児童日常生活ハ自我ノ表現ナルコト 三、児童自我ノ表現ハ自我其儘無邪気ナル表現ナルガ故ニ、之ヲ奨励スルコト 四、教育ヲ受クルハ自我ノ向上ト共ニ社会参加ノタメナルコト」の四項目をあげた。さらに、教師に対しては、「常ニ自己人格ノ完成ニツトメ児童ノ模範タルベシ」「常ニ教育事業ノ神聖ナルコトヲ自覚シ、慰藉ト悦楽トヲ勤労中ニ求ムベカラズ」「常ニ身体ノ健全ヲ図リ、快活ナル心情ヲ以テ学校ノ共同生活ヲ遂ゲシムベシ」「常ニ余力ヲ研究ニ用ヒ、以テ教授ノ実効ヲ奏スベキ根底ヲ立ツベシ」「常ニ時代ノ趨勢ヲ確知シ、理想ヲ実現センコトニツトメ以テ社会改善ノ先駆者タルベシ」との「心得」を求めた。そして、「児童懲戒ニ関シテハ絶対ニ体罰ヲ加フルヲ許サズ」と教師の体罰を厳禁した。
児童には「自我」を確立させ、個性を発揮させるようのびのび育てる、翻って教師には、聖職者としての教師たるべく、教育者としても人間としても自己鍛錬を重ね、理想実現のため教育をつうじて社会改善をはかれと要望している。この学校経営規定作成時の校長は、一九二一(大正一〇)年一一月に赴任した、当時三二歳の尾崎英太郎で、彼は文教地区であった東京市本郷区(現文京区)内の小学校教師として教員生活をスタートさせた人物であった。移動手段が限られていた時代、北多摩郡在住の教師は府下の学校に赴任することが多く、東京の中心部での教員経験を持つ尾崎は珍しいケースだったと思われる。尾崎校長が本郷区白山御殿山の学校で大正自由主義教育の洗礼を受け、そこでの経験を小平村へ導入せんとしたのであろう。
尾崎は一九二五年一月に学校を去るので、校長在任期間は三年余りと短く、この自由主義的な個性尊重の教育方針や、東京市内の小学校でも通用しそうな学校運営法が、そっくりそのまま小平村で受け継がれたとみることはできないだろう。だが、都会の新しい時代の波が小平村にも押し寄せてきてきた一つのあらわれであった。