学校生活と子どもたち

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『小平市教育史資料集』第六、七集に採録されている戦前に学校生活を送った人びとの談話をみると、当時の学校のようすや子どものくらしぶりがいきいきと甦ってくる。大正時代の生徒の服装は男女とも、おおむね着物で下駄履き、男子は帽子をかぶり、女子は前掛けをしていた。そして、四大節(新年節、天長節、紀元節、明治節)など特別の行事の際は少しおしゃれに袴をつけて登校した。先にも述べたが、冬は霜柱が立って下駄での登校には苦労し、元気な子は裸足になって霜が降りた冷たい道を走って登校したという。天長節、紀元節、明治節には校長が教育勅語を生徒に読み(奉読と言った)、生徒は整列し頭を深く下げて、これを聞いた。一連の儀礼が終わるとノートや鉛筆、お菓子などが入った袋をもらって帰宅した。学年末には精勤賞、優等賞の表彰があり、辞書などの賞品が貰えた。精勤賞の賞品欲しさに風邪をひいても学校に行ったという。
 農家の児童たちは家にとっては働き手でもあって、学校から帰ると農作業や家事の手伝いが待っていた。風呂焚き、子守、掃除、麦刈り、落ち穂拾い、ずい虫とり、などである。農繁期には一週間から一〇日の農繁休暇があった。農繁休暇中は子どもといえども懸命に働かねばならず、休暇であっても嬉しくなかったという。子どもたちにとって楽しみは盆や正月、お祭りで、とくにお月見は籠を手に近所の家々をまわって芋や団子などのお供えをもらって帰り、たらふく食べることができたので思い出深い、楽しい行事だった。
 また、学校では明治期後半から遠足があり、一八九九(明治三二)年に入学した人は一年生の時に青梅橋近くの丸山台、二年生は小金井の桜見物(図3-14)、三年生は府中の大国魂神社、四年生は日野の百草園に行ったといい、すべて徒歩であった。大正時代には一泊で江ノ島、鎌倉へ行く修学旅行もはじめられていた。交通機関の整備にしたがって修学旅行先は遠方になり、昭和一〇年代には関西まで足を延ばすようになった(『小平市教育史資料集』第六集)。

図3-14 小金井桜のお花見風景
小平市立図書館所蔵