就学と進学のひろがり

255 ~ 257 / 861ページ
表3-6「学齢児童数ならびに小学校就学率」は、小平村全体の小学校就学率の変遷であるが、大正時代をつうじて上昇し続け、とくに男子と比べて低かった女子の就学率が上がって、男女差がなくなってきていることがわかる。昭和に入ると、就学率は九九%を超えてきており、病気や貧困などで就学猶予を認められた者以外はすべて学校に入るようになった。
表3-6 学齢児童数ならびに小学校就学率
 学齢児童数就学率
男子女子男子女子
1913年51147598693.4%79.2%86.9%
1916年5284741,00294.5%86.5%90.7%
1921年5725921,16497.6%89.5%93.5%
1926年6256081,23299.5%94.9%97.2%
1931年5805141,09499.6%99.0%99.3%
1936年6185951,21399.7%99.7%99.7%
(出典)『小平市教育史資料集』第6集、第7集より作成。

 もちろん、入学はしていても、実際にはあまり就学していない子どもたちがいた。貧しい家の子どもは、家業の手伝いをするため、あるいは女中や子守として他出して働くため学校に行くことができなかった。
 しかし、農家を継ぐ息子や娘に学問は不要だと親たちが考える時代は、すでに終わりを告げていた。一九三五(昭和十)年に小平の尋常小学校を卒業した男子生徒のうち高等小学校へは七四%、中学校ほか中等教育機関へは九%が進学し、女子生徒は、高等小学校へ七九%、高等女学校や実科女学校へは六%が進学している(表3-7参照)。これと比較する意味で、隣の田無町にあった田無尋常小学校のデータを参照すると、同じ年の男子卒業生で高等小学校に進学する者が七六%、中等教育機関へ進学する者が七%おり、女子では六四%が高等小学校へ、二四%が女学校・実科女学校などへ進学している(『田無市史』第二巻)。男子の高等小学校への進学と中等教育機関への進学を合わせた割合は八三%と同じで、女子の高等小学校への進学と女学校・実科女学校等への進学を合わせた割合は、町場を含む田無の方が若干高かったが、進学状況は年によって多少の差があることから、ほぼ同様の水準であったといってよいだろう。このように昭和の初期までに、子どもの就学率の上昇だけでなく、就学年数も長期化し、小平村や田無町の場合、男女ともに尋常小学校卒業後すぐに働き出すのではなく、高等小学校ないしは中等教育機関に通うようになっていた。これは子どもの学習意欲の高まり、子どもに少しでも高い教育を受けさせようという親の意識の高まりを示している。
表3-7 尋常小学校卒業者の進路
 1930年1935年1938年
男子女子男子女子男子女子
師範学校000000
中学校へ進学010
高等女学校へ進学537
実業学校へ進学(男)7610
実科高等女学校へ進学(女)010
各種学校へ進学00110
高等小学校へ進学623964537764
補習学校・青年学校などへ進学412200
就職002339
家事従事01011515
その他000001
合計(卒業者数)735587679286
(出典)『小平市教育史資料集』第10集、『小平市三〇年史』229頁より作成。

 こうした教育への意識の高さが、大正時代から昭和のはじめにかけて村内四校全部に高等小学校を設置しようという動きとなってあらわれたのである。しかし、村民の要望は認められず、「高等科設置問題」が起き、野中新田では住民の強力な反対運動が巻き起こった(本章第二節2参照)。そして、同盟休校などの激烈な抵抗運動が実行されたが、そこには、各地域住民が長年地域の学校を実質的に支えてきた経験に裏打ちされた、自分たちの学校という強い思いがあってこそのことだった。