表3-6 学齢児童数ならびに小学校就学率 | ||||||
学齢児童数 | 就学率 | |||||
男子 | 女子 | 計 | 男子 | 女子 | 計 | |
1913年 | 511 | 475 | 986 | 93.4% | 79.2% | 86.9% |
1916年 | 528 | 474 | 1,002 | 94.5% | 86.5% | 90.7% |
1921年 | 572 | 592 | 1,164 | 97.6% | 89.5% | 93.5% |
1926年 | 625 | 608 | 1,232 | 99.5% | 94.9% | 97.2% |
1931年 | 580 | 514 | 1,094 | 99.6% | 99.0% | 99.3% |
1936年 | 618 | 595 | 1,213 | 99.7% | 99.7% | 99.7% |
(出典)『小平市教育史資料集』第6集、第7集より作成。 |
もちろん、入学はしていても、実際にはあまり就学していない子どもたちがいた。貧しい家の子どもは、家業の手伝いをするため、あるいは女中や子守として他出して働くため学校に行くことができなかった。
しかし、農家を継ぐ息子や娘に学問は不要だと親たちが考える時代は、すでに終わりを告げていた。一九三五(昭和十)年に小平の尋常小学校を卒業した男子生徒のうち高等小学校へは七四%、中学校ほか中等教育機関へは九%が進学し、女子生徒は、高等小学校へ七九%、高等女学校や実科女学校へは六%が進学している(表3-7参照)。これと比較する意味で、隣の田無町にあった田無尋常小学校のデータを参照すると、同じ年の男子卒業生で高等小学校に進学する者が七六%、中等教育機関へ進学する者が七%おり、女子では六四%が高等小学校へ、二四%が女学校・実科女学校などへ進学している(『田無市史』第二巻)。男子の高等小学校への進学と中等教育機関への進学を合わせた割合は八三%と同じで、女子の高等小学校への進学と女学校・実科女学校等への進学を合わせた割合は、町場を含む田無の方が若干高かったが、進学状況は年によって多少の差があることから、ほぼ同様の水準であったといってよいだろう。このように昭和の初期までに、子どもの就学率の上昇だけでなく、就学年数も長期化し、小平村や田無町の場合、男女ともに尋常小学校卒業後すぐに働き出すのではなく、高等小学校ないしは中等教育機関に通うようになっていた。これは子どもの学習意欲の高まり、子どもに少しでも高い教育を受けさせようという親の意識の高まりを示している。
表3-7 尋常小学校卒業者の進路 | ||||||
1930年 | 1935年 | 1938年 | ||||
男子 | 女子 | 男子 | 女子 | 男子 | 女子 | |
師範学校 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
中学校へ進学 | 0 | - | 1 | - | 0 | - |
高等女学校へ進学 | - | 5 | - | 3 | - | 7 |
実業学校へ進学(男) | 7 | - | 6 | - | 10 | - |
実科高等女学校へ進学(女) | - | 0 | - | 1 | - | 0 |
各種学校へ進学 | 0 | 0 | 1 | - | 1 | 0 |
高等小学校へ進学 | 62 | 39 | 64 | 53 | 77 | 64 |
補習学校・青年学校などへ進学 | 4 | 1 | 2 | 2 | 0 | 0 |
就職 | 0 | 0 | 2 | 3 | 3 | 9 |
家事従事 | 0 | 10 | 11 | 5 | 1 | 5 |
その他 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 |
合計(卒業者数) | 73 | 55 | 87 | 67 | 92 | 86 |
(出典)『小平市教育史資料集』第10集、『小平市三〇年史』229頁より作成。 |
こうした教育への意識の高さが、大正時代から昭和のはじめにかけて村内四校全部に高等小学校を設置しようという動きとなってあらわれたのである。しかし、村民の要望は認められず、「高等科設置問題」が起き、野中新田では住民の強力な反対運動が巻き起こった(本章第二節2参照)。そして、同盟休校などの激烈な抵抗運動が実行されたが、そこには、各地域住民が長年地域の学校を実質的に支えてきた経験に裏打ちされた、自分たちの学校という強い思いがあってこそのことだった。