上級学校へ進学しない尋常小学校・高等小学校卒業者の男子を対象にして一九一〇(明治四三)年、実業補習夜学校が設置された。女子に対しては二年遅れて一九一三(大正二)年に小平女子補習会が開設された。そして実業補習夜学校・女子補習会は一九一七年に実業補習学校となり、男子部・女子部にわかれ、授業をおこなうことになった。一九二五年には農業公民学校と改称した。実業補習学校は、当初、農閑期である一一月から翌年二月までの四か月間、三か年にわたって、男子部は修身・国語・算数・農業・唱歌、女子部は修身・家事・裁縫を学んでいたが、一九二五年から農閑期以外にも一か月に四~五日ずつ、夜七時から夜間授業をするようになった。四月から始まる前期授業の受講者はさすがに少なかったが、農閑期である後期の授業には一〇〇人ほどの生徒が受講した。
毎年の入学者数は、後期受講者に限ると少ない学校で男女合わせて二〇人あまり、多いところでは四〇人を超えていた(「学校表」)。農業公民学校は村内全部の学校に併設されていたので(小平尋常高等小学校には小平中央農業公民学校、第一小学校には第一小平農業公民学校など)、村内全体ではかなりの人数の受講者がいたことになる(一九二八年で四五〇人)。授業は小学校教師が担当し、一九二八(昭和三)年では修身・国語・音楽・理科・数学・農業・体操・裁縫・家事など多様な学科が教えられ、村では農業公民学校のために年間三八六六円の補助金を支出していた(「実業補習学校補助ノ儀ニ付申請」)。
この農業公民学校と併置するかたちで一九二六年に、勅令によって設置されたのが青年訓練所である。青年訓練所では上級学校へ進学しない一六歳から二〇歳までの男子を入学させ、四年間、身体鍛錬と国体観念の注入をつうじて臣民としての国民を養成することが目指されていた。授業の半分は軍事教練に割かれ、四年間で四〇〇時間におよんだ。二〇歳で徴兵検査を受けるときに、ある程度の訓練済みの人材を軍隊に迎えることができるというわけである。そのかわり青年訓練所を修了していれば兵役期間を半年短縮するという特典が与えられた。小平村では四校にそれぞれ青年訓練所が設置されたが、青年訓練所は教練のほか、実業教育や普通教科の授業も行うことになっており、既設の農業公民学校と内容が重複した。青年訓練所と農業公民学校両方に在籍する者も多く、教師も重複するなど両者の区別が曖昧であったことから、一九三五(昭和一〇)年四月、勅令青年学校令により実業補習学校と青年訓練所を統合して青年学校を発足させることとなった。小平村では同年八月に小平青年学校が設置された。