上級学校への進学者が増加した昭和初期、小平村青年団員たちも新しい知識の吸収や研究に熱心に取り組んだ。一九二八(昭和三)年には村民二〇〇名から寄付金二六〇円七〇銭を集めて「村勢調査」をおこない(「御大礼記念して村勢調査資金寄付者芳名」)、『小平村郷土史概要』と『小平村勢一班』(一九二九年一月)を作製した。裏表一枚に印刷したものであるが、前者は「日本を知る前に我村を知らなくてはならない」という自己省察の歴史を試み、小平村の成立、位置、地勢、気候、農産物、史跡、社寺などを調査、記述したものである。ただここにおいては、自村を近世の新田開発村とする歴史意識は希薄で、のちの『小平町誌』(一九五九年)のような位置づけはなされていない。後者は、戸数、人口、教育、勧業、財政、兵事及び衛生、交通などの現状を数字で示したものである。
また、農家の蚕室を利用し、「団員の修養」のために読書会などを開いた。「人によっては、つっかえて本をうまく読めない人」もいたが、「ランプの光で順番に本を読み」教養を高めた(「青年訓練所時代のことなど」)。
若者の向学心を示すものとして、当時一八歳の青年の日記をみてみよう。「夕方、慶應義塾の予科へ入っているMが高下駄を引きづり乍ら横風に通る。馬鹿にツン/\している。気に障る。私がこの農業に大いなる執着を感じているならば、学生がなんだ。俺はこの世界、否宇宙の大いなる実在たる尊き職にたづさはる百姓なんだ。学問がなんだ生意気な! と叫んだであろう。しかし、しかし私のほんとうの心は、それは安価なる自己満足なのだ」(「大正十年当用日記」)。つまり「農は国の本なり」だといい自己を納得させつつも、農村在地青年の煩悶と学問への憧憬には強いものがあったことがわかる。
このような状況のなか青年団は、自学自習のほか、農作物の試作場や桑園設置、養豚飼育の研修、農作物の品評会の開催、作物病害や鼠駆除、道路の修繕、排水路の掃除(「沼さらい」)、青梅街道の除雪作業などの事業をおこない、祭りでは実働部隊として、運動会では子どもの脇役として、活躍したのである。大日本青年団会館(千駄ヶ谷、現日本青年館)の講習や国会議事堂の見学などにも出かけ、見聞を広めた(「青年訓練所時代のことなど」、「昭和一六年度会計簿 第六分団第四支部」)。