一方、未婚の女子についても、青年団の社会教育団体化にあわせて組織化が進められるようになった。小平村では一九二四(大正一三)年一月に、第一小平女子青年会、小平村婦女会、東女子団、桜会が結成され、翌一九二五年五月にこの四団体によって「小平村女子青年会」が結成された。そして、講演会や遠足、見学旅行のほか、「相互修養会」や「毎月三日神社参拝」など、精神修養を重んじた活動が展開された(「小平の青年団沿革」)。
村単位の青年団が結成されるのと軌を一にして、一九二〇年頃に北多摩郡連合青年団、一九二四年には東京府連合青年団が生まれ、青年団の連合組織が形成されていく。後年、代議士になる細田義安(一九〇三~六二年)が残した文書に、彼が一九三一(昭和六)年に北多摩郡聯合青年団副団長に選任されたときの書類があるが、柳条湖事件が発生した九月からの三か月間に、国防及満蒙問題に関する大講演会(九月一三日、国分寺村東分教場)、満蒙講演会(一一月一八日、府中)の集会案内、大日本聯合青年団は満州事変に際して「郷土を護るのは青年団本来の責務である」と書いた趣意書が添付された満蒙派遣軍遺家族慰問義金の募集(一九三一年一二月)など時局関係の書類が来ていることがわかる(「青年団関係書類綴」)。集会への動員や募金などは大日本聯合青年団→(関東都市青年団)→東京府青年団聯合→北多摩聯合青年団→小平青年団という組織をとおしたもので、上意下達の連絡にほかならなかった。にもかかわらず、これらの組織網をとおして、村の青年は、村外や他県の青年との交流を深め、人脈を広めていったのである。