伝染病対策

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大正時代に入ると腸チフスやコレラなどの伝染病が大流行することはなくなったが、それでも表3-9のように伝染病患者が発生しない年はなかった。一九一九(大正八)年には「学校伝染病予防規程」が定められ、就学のためには種痘完了が義務化された(近現代編史料集① 解題)。天然痘は「疱瘡(ほうそう)」とも呼ばれ、死亡率が高い病気で、死に至らなくても顔、体にひどい痘跡(あばた顔)が残るため、「疱瘡の器量直し」ともいわれて、子どもの親たちには恐れられていたのである。そんなこともあり、疱瘡の神として小川四番の小山家に祀られている瘡守稲荷社は、近在からの信仰を集めていた。
表3-9 伝染病患者数の推移
 患者数死亡数
 赤痢疫痢ジフテリア腸チフス脳脊髄膜炎合計
1920年     251
1921年 121
1922年 646
1923年 224
1924年3113 172
1925年125 80
1926年011 110
1927年2133 90
1928年01 20
1929年115 160
1930年14642170
(出典)「解題」『小平市史料集近現代編』第1集より作成。
(注)原典は、「小平村会会議録」の事務報告書。

 一九二八(昭和三)年には、成年男子が発病したとのことで大騒ぎとなり、警視庁から防疫官の出張を願い出た出来事もあった(近現代編史料集③ No.九五)。表3-9のように赤痢や腸チフスにかかる患者は後を絶たなかった。この原因は、『小平市医師会史』によれば、飲料水に起因しているという。玉川上水からの分水を直接飲料水としていたため、上流からの生活排水などによって汚染され、上流地域で伝染患者が発生すると下流住民に禍根が及んだのである。住民はこの事実を知らされ、衛生思想の徹底を試み、用水の沼さらいなどに努めたというが効果は充分にはあがらなかった。
 また予防接種など医学的に有効な伝染病の予防手段がとれなかった時代であったので、いったん伝染病が発生すると地域は大騒ぎとなった。一九二八年三月、小平村で五二歳の男性の天然痘患者が発生したときも、田無署管内は大騒ぎとなり、警視庁からの防疫官の出張を願い出ている(近現代編史料集③ No.九五)。
 当時の伝染病対策では、感染拡大を防ぐことが優先され警察の指揮のもと、強制的に患者の伝染病舎への隔離や患者宅および近隣の消毒が実施された。これらの作業には、医師ら医療関係者、そして、地域に結成されている衛生組合が当たった。衛生組合は平時においても、地域ぐるみの大掃除などを実施して、衛生状態の改善につとめた(第二章第四節2参照)。なお、村の隔離病舎は小川新田と山家の境にあった。
 そのほか小平の場合、川越町(現川越市)にあった川越病院へ「依〔委〕託収容」されて、治療を受けることもあった。自動車のない時代、六、七里(約二五キロ)の遠い道のりを戸板でつくった担架や荷車に載せられ、しかも荷車に囲いをして(道行く人に伝染病患者であることが)わからないように引いて行くのである(『公立昭和病院五十年の歩み』、「避病院と店屋などの話」)。重篤な状態にある患者とその家族からすれば、ひどい苦しみであったろう。