田無警察署管内では、小平村、田無町、武蔵野村、保谷村、久留米村、清瀬村、大和村、東村山村の八か町村(のちに国分寺村も加わる)が組合をつくり、伝染病患者を収容できる病院を設立することになった。病院建設地には、小平村野中新田与右衛門組の土地(一万二二一五m2)が選ばれた。同地は民家から遠く離れ、地権者も二名だけで反対運動が起きにくい場所だったからである(『公立昭和病院五十年のあゆみ』)。
これが現在の公立昭和病院で、一九二九(昭和四)年七月に業務を開始した。初代管理者には小平村長小川良助が就任した。開設当時の建坪は一三九〇m2(四〇〇〇坪)で、病室二八室(病床五一)、そのほか院長住宅や看護婦宿舎などが完備された立派なもので、診療費をみると組合町村民の普通病は一日二円五〇銭、伝染病は無料であったが、組合外の患者は伝染病、普通病ともに三円五〇銭であった(『東京日日新聞』府下版、一九二九年七月一〇日)。しかし、開院から半年の一九三〇年一月一七日に炊事場付近から出火、全焼する。幸い保険に入っていたため同年八月に再建され、業務を引き継ぐことができた(近現代編史料集③ No.一〇三)。
図3-17 昭和病院落成記念絵葉書 1930年8月
たましん地域文化財団所蔵