昭和病院の開設と医療機関

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伝染病患者には多くの子どもたちが含まれていたことを思えば、こうした貧しい医療環境の改善が地域の人びとから強く望まれたのは当然のことだった(「地元の方を訪ねて(その二)」)。しかし、伝染病患者収容のための病院を開設することには賛成でも、それが自分の近隣に建設されるとなると強い反対が出る。当時、東京府立清瀬病院(通称、清瀬の結核療養所。現在の独立行政法人国立病院機構東京病院)や武蔵境駅前に建設予定だった精神病院について、地元では根強い反対運動がされていた(近現代編史料集③ No.一〇〇~一〇二)。
 田無警察署管内では、小平村、田無町、武蔵野村、保谷村、久留米村、清瀬村、大和村、東村山村の八か町村(のちに国分寺村も加わる)が組合をつくり、伝染病患者を収容できる病院を設立することになった。病院建設地には、小平村野中新田与右衛門組の土地(一万二二一五m2)が選ばれた。同地は民家から遠く離れ、地権者も二名だけで反対運動が起きにくい場所だったからである(『公立昭和病院五十年のあゆみ』)。
 これが現在の公立昭和病院で、一九二九(昭和四)年七月に業務を開始した。初代管理者には小平村長小川良助が就任した。開設当時の建坪は一三九〇m2(四〇〇〇坪)で、病室二八室(病床五一)、そのほか院長住宅や看護婦宿舎などが完備された立派なもので、診療費をみると組合町村民の普通病は一日二円五〇銭、伝染病は無料であったが、組合外の患者は伝染病、普通病ともに三円五〇銭であった(『東京日日新聞』府下版、一九二九年七月一〇日)。しかし、開院から半年の一九三〇年一月一七日に炊事場付近から出火、全焼する。幸い保険に入っていたため同年八月に再建され、業務を引き継ぐことができた(近現代編史料集③ No.一〇三)。

図3-17 昭和病院落成記念絵葉書 1930年8月
たましん地域文化財団所蔵