だが、病気になったからといってすべてが昭和病院に入院したわけではない。一九四二(昭和一七)年においても、自宅で療養することも少なくなかった。「こんな病気だから、うつるといけない」と納屋を改造し、そこを病室として家族のいる母屋から移り、自宅療養をした人もいた。そんなときにも小平在住の宮崎杉太郎先生が毎日往診に駆けつけてくれたという(「仏像を作って逝った平さん」)。
小平では、昭和病院が設置される以前の大正末期には、宮崎杉太郎、小出甲太郎、山口広徳の三人の医師がいたことが、『北多摩医師会六十年史』で確認できる。なかでも全校の校医を務めていたのが宮崎診療所の宮崎杉太郎であった。さらに、その業務を一九二九年七月に引き継いだのが、昭和病院長の白井光次である。白井は、当時の小平児童の医療・衛生状況をふり返り、欠食児童はなかったが、児童の入浴は二、三日に一度、石鹸を使わず、烏の行水で首筋や手足は垢だらけ、とくに昭和の初め頃には十二指腸虫症や回虫症に罹っている子どもが多く、トラコーマや疥癬(かいせん)にかかっている児童も相当あった、と回顧している(『小平医師会史』)。