くらしを支えるムラと教育熱

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明治以降に、近代的な仕組みや知識が導入されたとはいえ、人びとのくらしやそれを支える仕組みの変化の速度は、戦前をとおして緩やかであった。行政の支えが限定されていた戦前においては、くらしを支える仕組みにとって依然として家やムラの役割が大きかった。
 武蔵野台地に位置する小平では、夏の干ばつや冬の強風などに苦しめられてきたが、人びとは用水の維持に気を配り、防風林にケヤキや孟宗竹を植えるなどして、自然のもたらす脅威と対峙してきた。同時に、人びとは自然への畏敬の念をもち、神仏へ祈りを捧げながら、日々のくらしを守ろうとしていた。
 村の道路や橋、用水の維持・管理、神仏への祈願や祭礼、そして家々の冠婚葬祭などでは、人びとの協力を不可欠とする。しかし新田開発で成立した小平では、同族組織の機能や活動は微弱であり、またムラで共有する山林や草刈り場をもたないため、ムラがもつ地域集団としてのまとまりも緩やかであった。そのなかでくらしを支える仕組みとして重要な役割をもったのは、トナリやサシバといった近隣同士の地縁的結びつきであり、姻族との結びつきであることが、葬式のツキアイを検討するなかでみえてきた小平の特徴であった。
 しかし近代になってから、地域のまとまりを強めていくような契機がなかったわけではない。すなわち上からつくられた小学校、消防組、青年団は、それら自体がくらしを支える仕組みであると同時に、それらがつくられたことが、旧村単位のまとまり、さらにはそれを超えた全村のまとまりを構築・強化していくのに大きな役割を果たしたのである。とりわけ小学校は、地域の人びとの教育熱によって支えられ、保護者や子ども同士のつながりがつくられる場となり、村の人びとが集まる場でもあった。そこでつくられた結びつきは、青年団や消防組のまとまりにも影響を与えたのである。