上海付近に上陸した日本軍は中国軍の抵抗に苦戦したが、激戦の末上海を陥落させると、退却する中国軍を追撃し、一二月一一日には中国国民党政府の首都である南京を陥落させた。この時日本軍は、中国軍捕虜や敗残兵の違法な大量処刑をおこない、また一般市民への残虐行為を相次いで引き起こしたため国際的な非難を浴びたが(南京事件)、日本国内では報じられなかった。和平の道をみずから閉ざした日本は、頑強な中国人の抵抗を前に、決定的な勝利を収めることができず、泥沼の長期戦を戦うことになった。
この頃日本国内では、戦局への楽観論や早期終結への期待感に加え、煽動(せんどう)的な戦争報道の影響もあって、南京陥落前から戦勝気分にあふれていた。人びとはよもや足かけ九年にわたる泥沼の戦争を戦うことになろうとは、思いもよらなかったのである。一二月七日頃の三多摩地方の町場では、すでに商店の軒先に「祝勝の日の丸」が掲げられ、祝賀の提灯行列の準備が始まっていたという。一方、農村部では「市街地のやうに沸き返る騒ぎは示さぬ」様子だったというが、それでも戦勝による「好景気来を期待」していたのは町場と同様であった(近現代編史料集③ No.二〇七)。
南京陥落のお祭り騒ぎの一方で、すでに小平村から出征した兵士たちの悲しい知らせが激戦地上海から届いていた。一二月一三日、日本軍が南京を正式に占領したその日、小平村会は「故村野喜造氏村葬執行の件」を可決した。日中戦争下の小平で最初の戦没者村葬がおこなわれることになったのである。
村野喜造はこの年の九月一日に発せられた召集令状により、同九日、発足したばかりの第一〇一師団歩兵第一〇一連隊(東京市赤坂)に入隊した。第一〇一師団のように戦時に臨時編成された特設師団は、二年の現役を終えて村に帰っていた者たち(予備役・後備役)を再召集してつくられたものである。しかし常設師団と比べて装備が劣るうえに、兵士の年齢が高く(二四~三七歳)、所帯持ちも多かったため、士気は上がらなかったという。村野もすでに三〇歳を過ぎた予備役の上等兵であった。
第一〇一師団は一六日に東京を発ち、神戸から船に乗り換えて二二日に上海上陸、そして二八日から中国軍が強固な陣地を構え、激しく抵抗する上海攻防戦に投入された。この戦いで日本軍は、一〇月一一日に歩兵第一〇一連隊の加納治雄連隊長が戦死したのをはじめとして、大きな損害を被った。同師団だけでも一一月初旬までに戦死者一三八〇名で、死傷率は四〇%以上におよんでいた。もっとも中国軍の損害はそれよりはるかに大きかった(『第百一師団長日誌』)。なお歩兵第一〇一連隊はその後も上海の警備にとどまった。
村野喜造はこの激しい戦闘のさなかに負傷し、それがもとで一〇月一九日に野戦病院で死んだのだった。村野の母親は夫を日露戦争で失ったのに続いて、息子も戦争で失ったのだが、おおやけには「立派な働きをしてくれてこんな嬉しいことはありません。父親も定めし草葉の陰で喜んでゐることでこざいませう」と語らなくてはならなかった(近現代編史料集③ No.二三七)。
なお同時に入隊した小平村の竹内長吉、村田吉男もこの戦闘で命を落とした(翌年一月に村葬執行)。彼ら三名は平和な日常生活を送るなかで突然召集令状を受け取ってから、わずか一か月あまりで命を落としたことになる。村からの出征者の戦死は、村民たちにとって、遠く離れた中国大陸での戦争が身近なものとして意識されていくきっかけとなったに違いない。
日中全面戦争からアジア・太平洋戦争へと、足かけ九年にわたって続いた戦争は、すべての国民とあらゆる物的資源を動員して戦う総力戦であった。したがって生死を賭して「前線」で戦う兵士たちだけでなく「銃後」の国民も、忍耐や団結、労働、奉仕、倹約などをつうじて戦争を戦い抜くことが求められた。そして日常生活にまで「国策」の影響が浸透し、地域社会も大きく変容していくことになったのである。
図4-1 出征兵士の見送り
小平市立図書館所蔵