前章にみたように、関東大震災をきっかけとして東京市の人口の郊外化が加速し、隣接郡部を編入して「大東京」が実現した。そして「大東京」のさらにその周辺に位置する北多摩でも郊外開発がはじまった。ところが一九三〇年代に入ると郊外化に加え「軍都」化の傾向が顕著となった。一九三一(昭和六)年の満州事変後、大規模な軍備拡張が進んだが、軍事施設や軍需工場が大都市近郊や地方につくられ、それらが集積する「軍都」(軍事都市)が新たに生まれていったのである。大都市の過密を抑制するために都市機能と人口を郊外や地方へと分散することは、都市問題の解決だけでなく、戦時における防空対策という軍事的な理由からも重要とされていたのだった。
北多摩では立川が陸軍航空戦力の研究・開発・製造の一大拠点となり「空都立川」とも呼ばれ急成長を遂げていった。一九三二年、それまで軍民共用であった立川飛行場(一九二一年完成)が陸軍専用となると、飛行場の周辺には陸軍航空廠(しょう)をはじめとして、陸軍航空工廠、陸軍航空技術学校などが立地することとなった。それと関連して、立川周辺には民間の軍用機工場も相次いで進出した。石川島飛行機製作所が一九三〇年に立川に移転(三六年に立川飛行機と改称)したのをはじめ、日中戦争期になると東京瓦斯(がす)電機工業立川工場(三八年操業開始、三九年に日立航空機立川工場と改称、現東大和市)、昭和飛行機工業東京製作所(三八年操業開始、現昭島市)、中島飛行機武蔵製作所(三八年操業開始、現武蔵野市)といった大規模軍用機工場が次々と設立されたのである。
こうした北多摩の「軍都」化の流れは一九四〇年頃から小平にもようやくおよんできた。小平では総力戦の遂行に関連する施設(陸軍施設や軍需工場、動員政策関連の施設など)の建設が、日中戦争期後半からアジア・太平洋戦争期にかけて急速に進んだのである。総力戦関連施設を中心とする地域開発が、戦時であるがゆえに急速かつ強引に進められることを「戦時開発」と呼ぶとするなら、土地利用や地域の景観だけでなく、人々の生業やくらしのあり方も含め、戦時開発によって地域社会は大きな変化を余儀なくされた。そしてこの戦時開発は、小平地域の戦後開発をも規定していくことになった。