傷痍軍人武蔵療養所

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日中戦争が長期化・泥沼化していくとともに、多数の戦死者・戦傷病者が発生した。戦争で病を得、あるいは傷を負って帰還した軍人は「傷痍(しょうい)軍人」と呼ばれた。一九三八(昭和一三)年、政府は傷痍軍人への医療や生活援護、職業訓練などをおこなうための専門部局として傷兵保護院を厚生省の外局に設置した。さらに翌年傷兵保護院は、軍人遺家族や帰郷軍人の扶助をおこなう臨時軍事援護部と統合して軍事保護院となった。軍事保護院は、長期療養保護の必要な戦傷病者のための施設として、結核療養所や温泉療養所、頭部損傷者や脊椎損傷者専門の療養所と並んで、精神医療専門の療養所の設置を決めた。それは、戦場や兵営での緊張や恐怖、長期にわたる転戦での精神的疲労といった戦争のストレスが原因で、心を病んでしまった軍人が増大したことへの対応である。
 軍事保護院は、精神療養所建設用地として福生と箱根ヶ崎の間にある松林を取得したが、そこが陸軍多摩飛行場の計画に含まれることになったため陸軍に譲り、急遽別の場所を探すこととなった。関係者は小平村から東村山町にまたがる松林・雑木林で、萩山駅にも近い場所に目をつけ、地元有力者の仲介で地主と交渉して、三万四千坪あまりを買収することに成功した。ここに建設された傷痍軍人武蔵療養所は、一九四〇年八月二〇日に一〇名の傷病兵を迎えて第一回入所式をおこなった(正式な開所式は一二月一一日挙行)。

図4-2 傷痍軍人武蔵療養所の病棟
国立武蔵療養所『創立三十周年記念誌』

 療養所敷地内には本館、三百床の病棟、講堂、職員官舎や看護婦宿舎などが建てられた。所内に附属看護婦養成所が設置され、精神医療に対応できる看護婦の養成がおこなわれた。さらに一九四二年四月に八百床への増設計画が決定されると、隣接の農地・山林四万六千坪あまりを追加取得し、病棟や研究室、作業場などを増設・新設した。このとき作業療法のために作られた農場(約二万坪)での作業は、治療というよりは食糧不足を補う「勤労奉仕」にほかならなかった。なお八百床増設計画は敗戦のため中断した。
 療養所の医師たちは「精神疾患患者の処遇に国家が乗り出してきたという点で、やらねばいかんと思い……やって来た」とあるように、最初の国立精神療養所の運営に使命感をもって赴任してきた(「座談会・国立武蔵診療所の過去と未来」)。また附属看護婦養成所に入所したある女性は、もともと従軍看護婦を志望していたが、それがかなわなかったため、従軍看護婦と同様に直接「お国に奉公ができ」る女性の仕事であるとして、ここに志願してきたのだった(「傷い軍人武蔵療養所の頃」)。
 入所者は三一~四〇歳が三分の二を占めた。療養所内の日常は軍隊のように規律正しい雰囲気で、入所者は医官や看護婦の指示を上官の命令として服従する傾向にあったというが、一方で脱走を企図する者や実際に逃走した者も少なくなかったという。一九四〇年から四五年までの五年間に延べ九五三名が入所し、七一四名が退所したが、うち死亡による退所が三八〇名におよんだ。食料事情の悪化と燃料不足による寒さが、患者の死亡率を押し上げたのだった。また職員から多数の応召者が出て人手不足が深刻となり、医療活動に支障が生じたという(『国立療養所史〈精神編〉』)。