北多摩通信所と陸軍技術研究所

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一九三三(昭和八)年、小平村野中新田と久留米村前沢にまたがって、村境が複雑に入り組んだあたりに、参謀本部北多摩通信所が完成した。敷地の大部分は久留米村で、正門のあたりは小平村に属するのだが、一般には「田無通信所」と呼ばれていた(「田無の通信隊に勤務して」)。陸軍参謀本部の対外情報収集活動は、麹町区三宅坂の参謀本部構内でおこなわれていたが、満州事変後の「時局に鑑み」て、新たに主力となる「傍受用無線受信所」がつくられることになったのである(「東京高速度無線受信所設置に関する件」一九三二年八月)。受信業務をおこなう庁舎と四本の鉄塔のほか、南側には官舎も建てられた。そして、ここで受信した信号は、三宅坂の記録所に転送され、暗号解析と情報分析に供された。

図4-4 北多摩通信所
鳥居英晴『日本陸軍の通信諜報戦』

 一九三七年に北多摩通信所に赴任したある所員は、その機材を見て「まことにお粗末な設備に驚いた」という。そのころは所員三〇名ほどの小組織であった。しかし戦争の進展と情報戦の強化にともない、敷地の拡張と設備の充実がはかられた。一九四〇年には庁舎の増築と受信機の増設、また西側に敷地を拡張してアンテナの増設が行われ、傍受能力を向上させた。一九四三年には陸軍中央特種情報通信隊と改名され、敗戦直前に隊員は一六三三名にまで増えた(『日本陸軍の通信諜報戦』)。
 一方、一九四〇年から四二年にかけて、玉川上水の南西の、小金井村にまたがる一帯が買収され、一九四二年に陸軍技術研究所が移転してきた。この頃陸軍は兵器関係の機関の整理統合を進めており、陸軍技術本部に置かれていた各研究所と陸軍科学研究所とを統合し、新設された陸軍兵器行政本部のもと、第一から第一〇までの陸軍技術研究所(技研)に再編成した。技研では航空関係以外の兵器の研究開発や兵器材料の基礎研究、軍事技術の研究開発を担当することになったのである(勅令六七八号「陸軍技術研究所令」一九四二年一〇月一五日施行)。なお航空関係兵器の研究開発は立川にある陸軍航空技術研究所が担当した。
 小金井と小平にまたがる敷地には、技研の五つの研究所が置かれた。第二技術研究所(観測・測量・指揮連絡用兵器)、第五技術研究所(通信機材・整備機材・電波兵器)が小平側の敷地にあり、第一、第三、第八の三研究所は小金井側の敷地に置かれた。
 さらに翌年七月一二日には技研の敷地の西端に多摩陸軍技術研究所(多摩研)が新設された。第五、第七、第九の各技術研究所の電波兵器関連の研究開発機能をここに統合したのである。電波兵器とは、通信以外の用途に電波を利用した兵器で、陸軍では一九三八年頃からレーダー兵器(地上用の電波警戒機や航空機用の電波標定機など)の研究が開始され、一九四二年頃にはやっと実用段階に到達したが、すでに「電波戦」を戦っている欧米諸国には大きく遅れをとっていた。アメリカ軍の圧倒的な航空戦力との格差はすでに明らかで、それに対抗するために日本軍は、電波兵器の研究開発・実戦配備を急ピッチで進めていかねばならなかったのだ。同研究所では機上電波警戒機、機上電波標定機、電波妨害機、地形判別機、電波高度計、電波探索機が開発された(『戦史叢書 陸軍航空兵器の開発・生産・補給』)。
 
表4-1 陸軍技術研究所の研究分野
研究所所在地研究分野・内容
第一陸軍技術研究所小金井鉄砲・弾薬・馬具
第二陸軍技術研究所小平観測・測量・指揮連絡用兵器など
第三陸軍技術研究所小金井爆破用火薬・工兵器材など
第四陸軍技術研究所相模原戦車・装甲車・自動車など
第五陸軍技術研究所小平通信器材・整備器材・電波兵器など
第六陸軍技術研究所百人町化学兵器(毒ガス)など
第七陸軍技術研究所百人町物理的兵器など
第八陸軍技術研究所小金井兵器材料・化学工芸など
第九陸軍技術研究所登戸秘密戦・謀略戦用兵器など
第十陸軍技術研究所姫路海運器材など
多摩陸軍技術研究所小金井・小平電波兵器
(出典)渡辺賢二『陸軍登戸研究所と諜略戦』吉川弘文館、2012年より作成。