満州事変後の日本は軍需産業をはじめとする重化学工業が大きく発展を遂げ、北多摩にも軍用機産業をはじめ工場進出が相次いでいたが、小平にはなかなか工業化の波は押し寄せなかった。小平には工場を誘致して地域開発を進めていこうという発想は弱かったように思われる。一九四〇(昭和一五)年版の『全国工場通覧』(一九三八年度調査)における小平村の工場(職工五人以上使用の工場)としては、増田金属管製作所(一九一三年創業)、金子撚糸工場(一九三二年創業)、鈴木酒造所(一八九〇年創業)の三事業所にとどまる。
ところが同書の一九四一年版(一九三九年度調査)では株式会社東京発条製作所(野中新田)と株式会社多摩製作所(鈴木新田字南側)が登場している。いずれも軍需産業の下請け工場の進出である。
東京発条製作所は一九二四(大正一三)年創業で、東京市蒲田区北糀谷で金属スプリングを生産していた。経緯は不明であるが、一九三九年に小平に分工場を設立し、機械用スプリングを製造して、近隣の軍用機工場に供給していたものと思われる。
多摩製作所は従業員の回想によると、一九三八年頃に発足したとされる。構内には機械部、無線部、鍛造部の三つの工場があり、機械部では飛行機用の小物部品を製造して立川飛行機に納品し、無線部では電線を捲いてコイルを製造して、軍用無線通信機のトップメーカーである日本無線に納品していた。また鍛造部も航空機用の部品をつくっていたようである。従業員は学卒の社員が一〇人ほどがいたほか、地元や近隣から採用された五、六〇人の工員が働いていたという。なおこの工場は敗戦を機に操業を停止した(『ききがき・そのとき小平では』第九集)。