一九四二(昭和一七)年六月、板橋区十条にあった東京陸軍兵器補給廠の分廠として小平分廠が開設された。補給とは戦闘に必要な物資を前線に供給することである。全国には一一の兵器補給廠があり、そのもとに分廠が三二あった。小平分廠は全国の軍需工場でつくられた戦車や装甲車、軍用トラック、サイドカーなどの大型兵器を運び込んで保管し、ここから必要とする部隊に供給する施設である。また小平分廠は車両の修理工場を有しており、そこに多数の工員を擁する軍需工場という側面をもっていた。二六万坪余りの敷地に、本部や修理工場のほか、兵器やその備品、燃料等の倉庫が林立し、戦車ほかの車両は野天で保管されており、なかが見えないように杉板の高い塀で囲まれていた。
場内には現在の国分寺線に接続する鉄道引き込み線があり、新品の兵器や要修理の兵器が鉄道を使って運び込まれ、再び戦地に運び出されていった。たとえば一九四二年のシンガポール陥落の際には、戦利品であるイギリス製の自動車が大量に運ばれてきて、エンジンを整備し、車体を塗り直して、軍用車として再び戦地に送り出した(「陸軍兵器補給廠と幼年工」)。相模原の造兵廠でつくられた戦車の場合は、二、三〇台が隊列を組んで、キャタピラーの轟音を響かせながら府中街道や青梅街道を走ってきたとのことであるが、運び出しには鉄道が用いられた。なお兵器の運び出しは機密保持の観点から、貨車の上の兵器にシートをかぶせ、夜間におこなわれた。
所内には軍人・軍属である職員や工員、徴用工のほか、学徒勤労動員でやってきた学生・生徒も働いていた。小平の人も多く職員や工員として採用された。ある男性は、中国戦線での兵役を終えて帰還してから、再び召集されるまでの二年間、小平分廠で守衛をつとめた。農家の三男である彼は「特に手に職がなかったので、食っていくため」に分廠に職を求めたと語っている(「陸軍兵器補給廠守衛の仕事」)。青木昇は高等小学校を卒業したら「養蚕学校」に入るつもりだったが、親の希望で分廠の幼年工になった。戦車を移動させるためにそれを操縦したが、一四、五歳のころの彼には背丈が足りず、操縦席に木の台を乗せて座ったという(「陸軍兵器補給廠と幼年工」)。
兵器補給廠に勤務する者たちは、日々兵器の出入りをみることで、戦局の悪化や国力の低下を実感していった。武器を送っても南方の戦地に届かないということが続けば、補給路となる海域の制海権を失ったことを知ることになる(「陸軍兵器補給廠守衛の仕事」)。青木昇は、廃車からエンジンや部品を集めるために、群馬県や宮城県を二か月にわたって回った。令状もなしに動かない車をかき集めて利根川の河原に並べ、片っ端からエンジンとプロペラシャフトを抜き取って、車体はそのまま放置していったこともあったという。こうして集めたエンジンは小平分廠で整備して特攻兵器に使うために送り出されたというが、日本軍が前線に満足な兵器を送り出せない状況に追い込まれていたことは、幼年工の目にも明らかであった(「陸軍兵器補給廠と幼年工」)。