東部国民勤労訓練所

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一九四二(昭和一七)年一月、厚生省所管の東部国民勤労訓練所が小平村小川中宿に開設された。約五万坪の敷地はもともと三井財閥の三井文庫が移転する予定地であったのを譲り受けたものだという(近現代編史料集③ No.二七六)。戦争の拡大・長期化のなかで、軍需工業をはじめとする重要産業に労働力を効率的に供給するため、政府は労働力動員政策を展開した。一九三九年の国民徴用令にもとづいて労働者を徴用するほか、女子や農業者、学校の新規卒業者を重要産業に誘導しようとした。さらに政府は一九四〇年一〇月、非軍需産業の中小商工業者を廃業させ、軍需産業への転職を促すことにした。そのため転職を斡旋する国民職業指導所を設けるとともに、転職者の職業訓練をおこなうために国民勤労訓練所がつくられることが決まった(一九四一年二月)。東部国民勤労訓練所はその最初のもので、その後奈良市、愛知県一ノ宮村、福岡県神湊村の三か所にも同様の訓練所がつくられた。
 東部国民勤労訓練所では訓練生(収容定員一千名)に対して一か月間の教育訓練を実施することになった。「日本精神、勤労精神、戦時経済」などの講義に加え、「精神訓練の主体を御祓に置き、更に体操、教練、各種作業(タガネ打、農耕等)、勤労報国作業等により身体的錬成を為す」とされており、精神主義的色彩が濃厚であった。また、全寮制で制服は貸与、旅費の一部や食事に加え、若干の手当てが支給され、修了者は優先的に国民職業指導所の斡旋を受けることができた(『転廃業者の進路』)。
 つまり国民勤労訓練所は、家業を奪われ転職を余儀なくされた自営業者たちの不満や抵抗感を抑え込み、「日本精神」を発揮させるために、彼らの精神と身体を「錬成」する施設であった。東条英機首相をはじめ、岸信介商工大臣、小泉親彦厚生大臣といった政府要人がここを視察に訪れたことは、戦時労働力動員政策にとってこの施設がもつ重要性を物語っている。なお政府は転廃業政策による転職先として、特に航空機産業を重視していたというが、航空機産業における欠勤率は一五%(一九四三年四月)にもおよんでいたことにみられるように、転業者の労働意欲は向上せず生産に支障が生じていたのであり、労働力を強権的に動員・再配置しようとする政策の矛盾は明らかであった(「労働力動員と労働改革」)。

図4-5 東部国民勤労訓練所拝殿(記念絵葉書)
たましん地域文化財団所蔵