戦時の住宅問題

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これまでみてきたように戦時開発による諸施設は、一九四〇(昭和一五)から四三年の間に完成をみている。陸軍経理学校や東部国民勤労訓練所は、そもそも学生・訓練生を寄宿舎に収容することが前提になっていた施設である。また北多摩通信所や武蔵療養所のように、夜間業務のために交代制勤務をとっている施設では、職員用官舎や看護婦宿舎を設置していた。しかし施設に勤務する幹部や職員、労働者のための住宅は絶対的に不足していた。
 こうした戦時開発にともなう住宅難は社会問題となっており、これに対応して、一九三九年、前年に発足したばかりの厚生省のなかに住宅課が設けられ、深刻化する住宅問題への対応の検討がはじまり、一九四一年、政府の全額出資のもとで住宅営団が設立され、住宅団地を造成して賃貸住宅あるいは分譲住宅を供給することになった。
 住宅営団の母体となったのは、財団法人同潤会である。これは一九二四(大正一三)年、関東大震災復興事業の一環として内外の義援金の一部を用いて設立された内務省管轄の財団法人で、当初罹災者のための仮住宅を建設したが、その後青山や代官山、清砂通りなど一六か所に、近代的な住宅設備や居住者のための共同施設を充実させた鉄筋コンクリートのアパートや、近郊に「勤人向け」の一戸建て分譲住宅を建設したことで知られる。同潤会は都市新中間層の新しい生活の場のモデル事業を展開したのである。
 一方、住宅営団は「住宅営団ハ労務者其ノ他庶民ノ住宅ノ供給ヲ図ルコトヲ目的トス」(住宅営団法〈一九四一年三月公布〉第一条)とあるように、軍需工場に勤務する労働者のための住宅を供給することに重点が置かれていた。なお営団には土地収用法にもとづく土地収用の権限や(第一七条)、各種税が免除されるなどの特権が与えられた。五年間に三〇万戸の住宅建設が目標として掲げられたが、一九四六年一二月に住宅営団が閉鎖されるまでに一六万五千戸が供給されたにすぎなかった。
 さて小平村には一九四三年、住宅営団住宅として喜平橋の南側に桜上水住宅が、さらにその西側に桜堤住宅がつくられた。これらは陸軍経理学校や陸軍技術研究所などの軍関係施設に勤務する人たちのための住宅であった。また同じ時期小川駅付近には中宿住宅が建設をはじめていたが、完成は敗戦後になった。ここは兵器補給廠小平分廠の職員向け住宅であった(図4-6)。

図4-6 営団住宅平面図
『小平町誌』965頁より作成。

 住宅営団の住宅は同潤会の「住宅標準間取図案」を改定して、いくつかの間取り形式を標準化したことで規格化が可能となり、資材を工場生産して大量の住宅を効率的に建築することができるようになった。さらに一九四三年一二月には「応急工員住宅」(六・二五坪)という規格が、最低基準の住宅規格として策定された。こうして戦局の悪化とともに資材や建築労働力が枯渇していったため、合理的ではあっても貧弱な営団住宅が大量供給されたが、それすらも不足する状況であった。一九四三年一月二二日、政府は「戦時住宅緊急対策に関する件」を閣議決定し、住宅価格の抑制や住宅営団を利用した住宅の計画的供給に加え、既存建物の転用や改築などの有効活用を促すべきとしている。小平でも二か所の営団住宅では足りず、地元の農家が納屋などを改造してつくった借家が増えていった。