表4-2 陸軍が買収した土地面積(地目別) | ||||
単位:反 | ||||
敷地 | 畑 | 山林 | 計 | |
経理学校 | 365.6 | 261.3 | 417.8 | 1,044.7 |
分廠 | 332.2 | 256.6 | 266.7 | 855.5 |
研究所 | 27.3 | 235.7 | 10.0 | 273.0 |
通信所 | 2.8 | 25.9 | - | 28.7 |
計 | 727.9 | 779.5 | 694.5 | 2,201.9 |
(出典)近現代編史料集⑤、No.125より作成。 |
買収交渉はきわめて強引で一方的なものだった。市民の回想によると、ある時役場から「ハンコと謄本を持って集まれ」と声がかかり、役場に行ってみると「有無を言わさず権利書にハンコつかせた」のだという(「強制買収」)。村内の山家(さんや)では、農業を維持していくために、敷地を計画案より百間ほど北に移動するよう要求したが、聞き入れられることはなく、買収交渉が終わらないうちに造成工事がはじまったのだという(『小平町誌』)。土地の代価として「雀の涙」程の代金(一律坪三円)が払われたとはいえ、「強制買収」といわざるをえないものだった。陸軍技術研究所の用地の場合も同様で、小金井村のある住民の証言では、坪単価三から五円と提示され、値段の交渉には一切応じてもらえなかったという。そして「いやなら〔国家総動員法――引用者注〕十三条と十六条でやる〔収用する――引用者注〕と脅された」と証言している(『小金井市誌編纂資料』第一三編)。陸軍兵器補給廠小平分廠の拡張工事で畑を買収された農家には、「田無警察からはんこと権利書をもってくるよう連絡がありました」とのことである(「陸軍兵器補給廠小平分廠と幼年工」)。
こうして買収により農地を失った農家は、代替地で農業を続けたり、小作に転落したものもいたほか、農業の継続をあきらめ、軍需工場の労働者に転業した者も多かった(近現代編史料集⑤ No.一三〇)。山家では農地の六二%が失われたが、その補償として住民を経理学校の雇員などとして雇うことを陸軍に約束させた。長沢ツネ子(一九二六年生まれ)の家では、家屋の敷地と農地が買収されたため、兄は経理学校の経理員として勤務し、ツネ子も立川の女学校を出たあと、兄の紹介で経理学校に事務員として就職し、図書の整理係を務めた。近所の人では経理学校の守衛になった人もいたという(「陸軍経理学校に勤めて」)。そのほか納屋や養蚕小屋を改造して軍関係者に間貸しをして生計を立てる者も多かった。先祖から引き継いできた土地を売却し、さらには代々の家業である農業を離れることは、まことに「断腸の思ひ」であったが、「国の為」と思うことでみずからを納得させるほかなかったのである(近現代編史料集⑤ No.一三三)。なお、このとき小平村隔離病舎の敷地も経理学校用地として買収の対象となったのであり、村民の衛生よりも軍事が優先されたともいえる(近現代編史料集① 八七九頁)。
小平の総力戦関連施設の建設は、住民が誘致したものではなく、国家から強制されたものであった。それは若干の雇用や借家需要を生み出したとはいえ、統制経済下では施設の立地による大きな経済効果を望めるはずもなく、地域と住民生活を強引に破壊するものであったといえる。