飯場の朝鮮人

289 ~ 291 / 861ページ
こうした戦時開発にともなう土木建築作業に従事したひとのなかには、朝鮮半島から渡ってきた人たちがいた。小平では陸軍経理学校と陸軍技術研究所の建設作業に朝鮮人が従事しており、彼らは茜屋橋北側附近や陸軍技術研究所附近の飯場に集住していた。戦時には出征兵士が増大する一方で、軍需産業の労働力需要が高まり、男子労働力が不足していた。朝鮮人労働者はそれを埋め合わせるために動員されていたのである。
 一九一〇(明治四三)年の韓国併合の後、第一次世界大戦期から日本内地に働きに来る朝鮮人が増えはじめるが、彼らは「自発的」に渡ってきた者たちである。日本政府は朝鮮人の渡航を制限しようとしたが、内地への渡航者は絶えなかった。なぜなら日本の植民地政策のもとで朝鮮では困窮者が増加したが、産業化が停滞して働き口は増えず、したがって経済的な上昇を遂げようとするなら、相対的に高賃金の日本に渡る必要があったからである。一方、内地の雇用主にとっては、低賃金で労働条件の悪いなかでもよく働く出稼ぎの朝鮮人労働者は歓迎された。朝鮮人は日本社会のなかで種々の差別を受けながらも、家族を形成して定着していく者もあらわれた。
 日中戦争が長期化すると、前述のように労働力の不足に対応してさまざまな労働力動員政策がおこなわれたが、朝鮮人労働力についても、政府のコントロールのもとで内地に送り出し、特に不足していた炭鉱労働者として配置していこうとした。さらにアジア・太平洋戦争の時期になると、炭鉱だけでなく、軍施設の土木工事や物資輸送などでも不足する労働力を朝鮮からの動員でまかなおうとした。こうして動員規模が拡大するにつれて、朝鮮人労働者の確保において、より強引な「勧誘」(「官斡旋」)がおこなわれるようになっていった。いわゆる「強制連行」である(『朝鮮人強制連行』)。
 多摩地域への朝鮮人の来住と、震災後の多摩の開発とは関係が深い。震災復興事業に必要な砂利を多摩川で採取する仕事にはじまり、郊外型施設や鉄道、貯水池、ダムの建設、さらには軍需工場や軍事施設の建設工事に朝鮮人労働者が従事していた。平時の郊外開発であれ、戦時開発であれ、昭和戦前期の多摩の「開発」は、植民地出身の人びとをも利用することで進められたのである。
 陸軍経理学校と陸軍技術研究所の建設作業に従事していた朝鮮人については、二人の女性の証言が残っている。一九〇六年生まれの朴重元は、朝鮮南部の慶尚南道出身で、二〇歳のときに夫と共に渡日してきた。一九二五(大正一四)年慶尚北道で生まれた黄末時は、一九四一(昭和一六)年五月にやはり夫と共に渡日したという。渡日後の詳しい経緯はわからないが、小平に来る直前には二人とも、兵庫県川辺郡上坂部(現尼崎市)で土木作業をしていたという。四二年から夫が陸軍技術研究所や陸軍経理学校の土木作業に従事することになり、それについてきた彼女たちは飯場(作業員の宿舎)の賄い婦になった。この工事は日本人請負師(木曽組)が請負ったもので、朝鮮人請負師(柳組)に下請けさせていたのだという。茜屋橋の木曽組の飯場は、水はけの悪い場所にたてられた三棟の長屋形式の建物で、多いときで三〇世帯が入居していた。米や作業服など生活必需品の配給は技術研究所のなかで受け取っていたという。彼女たちは経理学校と技研の工事が完成後は、神奈川県平塚や千葉県松戸の飛行場の工事現場で働き、そのあと再び茜屋橋の飯場に戻ったとのことで(『あの忌まわしい過去は再び繰り返されてはならない』)、工事終了後もこの地での朝鮮人の集住がしばらく続いたのだった(「戦時中の回田新田について」)。
 土木・建築作業現場における飯場という集住形態は、まわりの地域社会からは孤立的である。とくに当時の朝鮮人は飯場からの逃亡防止のため監視も厳しく、近隣住民との接触はきわめて制限的であった。前述のように物資の配給も地元住民とは切り離されていた。住民の回想や聞き書きをみても、飯場の朝鮮人の存在は知られてはいたが、交流にかんする記述はない。このような隔離的な飯場のあり方は、民族の相互理解にはつながらなかったといえよう。