厚生の家

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第三章第一節2でも触れたように、国分寺大学都市―小平学園と変遷してきた箱根土地による住宅地分譲だったが、その売れ行きは昭和恐慌の影響などで芳しいものではなかった。しかし恐慌からの脱出をうけて、一九三五(昭和一〇)年頃から徐々に売れ行きが回復してくるとともに、日中戦争のさなかである一九三八年から四一年にかけて、それまで更地が多かった小平学園の西地区に、ようやく住宅が建ちだしたといわれている(『小平町誌』)。東京の人口の郊外化のさらなる進展、および小平を含む多摩の戦時開発の影響が、学園地区にもあらわれてきたのである。
 一九三八年頃、小平学園の開発地六〇万坪のうち、多摩湖線の線路西側に沿った地区六万坪で「国分寺厚生の家」という建物付の分譲がおこなわれた。このころ分譲地全体は「国分寺厚生村」とも呼ばれており、小平学園駅と青梅街道駅のあいだに新設された駅は厚生村駅と名付けられた(三九年開設、四五年使用休止、五三年廃止)。なお一九四〇年の史料には「国分寺学園分譲地」という名称もみられる。
 国分寺厚生の家は、残されている販売用パンフレット(口絵3)によれば、土地百坪と小さなバンガロー風の家屋とをあわせて八〇〇円で販売された物件である。一九二六年に国分寺大学都市として分譲を開始した頃、分譲地の坪単価は九円八〇銭~一二円八〇銭だったのだから、坪単価八円はかなりの特価販売であった。別の販売関係史料(一九四〇年)によると、一区画一〇〇坪で坪単価八円の区画は駅から遠い場所であった。駅に近くなるにつれて坪単価は二〇円まで徐々に高くなり、一区画の面積も小平学園駅に近いあたりは二〇〇坪の区画が多かった。一九三九年にここに土地を買ったある人は、坪単価八円で二〇〇坪の区画を四区画買い、土地の片隅に家を建て、残りは菜園として利用したのだという(『郊外住宅地の系譜』)。
 販売を担当したのは国分寺駅にある多摩湖電車不動産課であったが、東京駅前の丸ビルにも販売事務所がおかれたことから、丸の内など都心に勤務するサラリーマン層を顧客として想定していたと考えられる。
 では、厚生の家とは何か。パンフレットには次のようにある。
「週末に一家団欒(だんらん)土に親しみ蔬菜や果実を収穫する健康な家庭和楽です。晴耕雨読の道場であり子女を教養する厚生国策に沿った新しい生活設計です。採算を度外視した沿線開発のための特別提供です」
「水害にも地震にも安全な健康地で投資物としても絶好です」
「今回新たに意匠登録を受けた瀟洒な農園小舎を建て家の周囲に果樹や蔬菜を栽培し一家団欒、土と緑に親しむのであります。戦時体制下の厚生国策に沿ふ、御一家の心身鍛練場として晴耕雨読の家庭道場として御所有になることを切にお奨め致します。彼の「農園住宅」や「歓喜力行」の本場とも云ふべきドイツから来たヒットラー・ユーゲントの見るからに健やかな身体や、溌剌(はつらつ)たる風貌に接するときまことに躍進ドイツそのものを見るの感があります。土と緑に育まるゝ彼らドイツ青少年子女の幸福を思ひ我等もまた大いに示唆を受けるものがあると存じます」

 つまり厚生の家とは、定住用の住宅ではなく、週末に農作業を楽しむための家庭農園付きの小屋のことだったのである。厚生の家の一例としてパンフレットに示された平面図は、建坪三坪で一階に土間、二階(屋根裏)は六畳間というもので、たしかに常住には適さないものだった(図4-7)。現地事務所には農具や種苗が用意され、留守中の土地の管理や農具の保管をすることもうたわれていた。もっとも別の史料には国分寺厚生村の定住用住宅の平面図もあり、分譲地全体がパンフレットのような家庭農園として販売されたわけではないことがわかる。

図4-7 「国分寺厚生の家土地附」案内パンフレット 江戸東京博物館所蔵

 では、厚生の家ないし厚生村という「厚生」を冠した宅地分譲とは、どういう意味だったのだろうか。一九三八年一月、総力戦体制構築を推進する軍部のあと押しをうけながら、国民の健康や体力増進政策、衛生や医療政策、人口政策、労働政策といった戦時社会政策を担当する官庁として、厚生省が発足した。そして同じ年、イタリア・ファシズムのドーポラボーロ(労働の後)運動やナチス・ドイツの歓喜力行団の活動に影響を受けて、日本でも余暇活動の充実と健全娯楽の推進をはかることで国民を統合し、生産力を向上させようとする厚生運動がはじまった。つまりこの時期の「厚生」とは、戦争の遂行に役立つような国民体力の向上や健全な余暇生活を意味していた。したがって厚生の家での「心身鍛練」「晴耕雨読」とは、まさにそのような意味での「国策」に沿った「厚生」にほかならない。一方で、厚生の家は「一家団欒」「家庭和楽」の場であることが強調され、「子女」の成長にとっても有益であることが謳われているが、それは「家庭」「団欒」の私生活空間と時間を大切にし、「子女」の教育を重視する意識が強かったサラリーマン層の家族に訴求しようとしたからであろう。ただし「厚生」が冠せられているのだから、そこでの私生活は「国策」に役立つ限りでの私生活ということになる。
 厚生の家・厚生村という名付けには、戦時における国策と商業主義の狭間で、郊外の位置づけやそこでの生活の意味付けが微妙に変化を遂げていることをみてとれる。それは戦時開発とはいえないが、平時の郊外住宅地開発としての学園開発が、総力戦体制に順応するなかで変形を遂げたものだといえよう。