戦時の都市計画

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多摩地区では一九三九(昭和一四)年に、立川、青梅、武蔵野、町田、府中、調布の各都市計画区域が決定され、これら各町と周辺町村の行政区域に対し、都市計画法が適用されることになった。東京市の周囲でこの頃決定された都市計画は、一九三〇年代半ばの「大東京地方計画」の考え方にもとづいている。その枠組は基本的に①東京市に連続する市街地の膨張を抑制する。そのために大都市の周囲に緑地・空地を保持した「健康住宅地」を設ける、②さらにその外側に「衛星都市」を設定してそこに市街地の分散をはかる、というものであった。武蔵野、調布は①の理念による「田園郊外区域」であり、立川、町田、府中、そしてすでに都市計画区域に指定されていた八王子は、②の理念による「工業振興区域」と位置づけられていた。この「大東京地方計画」は、戦後の「首都圏整備計画」へとつながっていくのである(「多摩・東京・首都圏」)。
 さて、武蔵野都市計画に指定されたのは武蔵野町、田無町、保谷村、三鷹村、小金井村の五町村であったが、一九四〇年四月に内務省はそこに小平、久留米、清瀬、東村山の四か村を加える意向を示した。それに対し関係四村長は、これを「村発展」のテコにしようと賛意を表していたが(近現代編史料集③ No.一七〇)、結局この構想は実らなかった。
 ところが東村山の町制施行(一九四二年四月)をきっかけに、一町三村による東村山都市計画が浮上した。「工場や学校地区として異常な発展をみてゐる」この地域に対し、「帝都郊外の模範的都計完成」を目指すというものであった。そこでは「貯水池から狭山丘陵をめぐる風致区、小平の学校区、清瀬、久留米の住宅区、東村山の商店区」という性格づけをもつ各地域が総合されることで、「模範的」な「田園郊外」型都市計画となると考えられていた(近現代編史料集③ No.一七五)。これは戦時開発で工場や軍事施設等が増えたことをきっかけに、無秩序な市街地化がこれ以上進まぬようにコントロールする必要性が認識されたことを示す。一九四二年一一月二七日に東村山都市計画が告示され、一二月四日、小平村会は東村山都市計画区域の決定について異議のないことを決議した。

図4-8 『東京日日新聞』府下版
1942年7月12日