昭和戦前・戦時期の小平農業

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これまで述べてきたように、学園開発がはじまった昭和戦前期から、戦時開発が進んだアジア・太平洋戦争の時期にかけて、小平は開発の時代を迎えており、外部の大資本や国家が地域社会を変えはじめていた。そうした開発に地域の将来への期待をかけた人たちもいれば、開発のために土地を奪われ、不本意ながら農業を棄てることを余儀なくされた人たちもいた。また軍需工業化や戦時動員の影響で自ら離農し、工場労働者や事務員として働きに出る人も増えていった。一九二八(昭和三)年現在、小平村総戸数に占める農家の割合は八三・一%であったが、三九年には六五・四%にまで減少した。一方、耕地面積は一九二五年に一二〇七町歩、三〇年に一二三三町歩、三五年に一二三八町歩と若干ではあるが増加傾向にあったものの、四〇年には一一五五町歩に減っており、戦時開発にともなって農地の転用が進行したことがわかる。
 一九三六年の統計(表4-3)を参照しながら小平村の農産物を概観してみよう。生産価額をみると、農作物では甘藷(かんしょ)(さつまいも)が突出しており、それに小麦、西瓜(すいか)、大根、大麦が続く。小平の農業においてイモ類や麦など、主食となる作物の比重が大きいのは明らかだが、この時代には西瓜や大根など都市向けの蔬菜生産も徐々に増えていったのである。一方、その他の農産物をみると繭の価額が大きく、大恐慌による打撃を契機に衰退がはじまったとはいえ、この時点では依然として養蚕が小平の農家にとって重要な副業であったことがわかる。しかし日中戦争開戦後になると、生糸市場の悪化と食糧増産政策の影響もあって養蚕の衰退が大きく進行することになる。それに代わって伸びたのが、乳牛の飼育や養豚、養鶏といった畜産業である。これは東京をはじめとする都市部の生活洋風化に対応したもので、牛乳、食肉、鶏卵の出荷による収入は、養蚕の衰退による収入減を補填(ほてん)した。なかには副業ではなく畜産の専業的経営へと展開していく者もあらわれた。こうして戦後に本格的に展開することになる都市向け農業への移行と農業多角化への兆しは、戦前にもすでにあらわれはじめていたのである。
表4-3 小平村の主要農産物(1936年)
品名数量評価(円)作付反別
1,126石26,05885.8
大麦4,960石37,200275.6
小麦4,476石63,797298.4
甘藷1,359,750石135,975388.5
里芋110,200貫16,53055.1
馬鈴薯224,550貫26,94649.7
茄瓜類103,450貫22,05727.4
西瓜137,250貫41,1754.9
漬菜63,000貫7,56012.6
大根755,100貫37,75583.9
独活3,000貫4,9808.3
1,210頭12,896
15,066羽8,239
牛乳933石32,620
春蚕繭19,824貫64,417
夏秋蚕繭23,505貫95,386
製茶2,925貫11,528
(出典)小平村役場『小平村村勢要覧(昭和11年5月現在)』1936年より作成。

 開発の時代になったとはいっても、昭和戦前・戦時期の小平の主要産業が農業であることに変わりはなかった。そして小平の農家は、時代に対応しながら自前の努力で農業の改良を推し進め、小平の農産物の声価を向上させようとする努力を続けていったのである。