図4-9 甘藷の収穫を喜ぶ 1935年頃
小平市立図書館所蔵
イモは干ばつに強いとはいえ、他の農作物と同様に天候によって収穫を左右されることには変わりがない。一九三五(昭和一〇)年五月には降雹で苗床から移植したばかりの苗が甚大な被害をうけた(『東京日日新聞』府下版 一九三五年五月二九日)。また一九三七年八月の干ばつで農作物の枯死が続出したとき、各神社で雨乞祭がおこなわれ、御岳(みたけ)(御嶽(みたけ)神社)や大山(阿夫利(あぶり)神社)にも代参を送った(近現代編史料集③ No.一一三/No.一一四)。
しかし神仏祈願にのみ頼っていたわけではない。小平の農家は、品質のよい多収穫の甘藷栽培を目指して生産方法の改良に精魂を傾けた。たとえば関根勝五郎と宮崎熊吉は一九三三(昭和八)年一二月の東京府農会主催主要農産物増収共進会の甘藷部門で一等、二等賞を独占した(『東京日日新聞』府下版 一九三三年一二月一六日)。関根は一九三〇年に「天地耕耘(こううん)」という生産方法の改良により、甘藷の増収を実現しており、「農者国本の大道をまっしぐらに邁進して来た土の父」と讃えられ、小平を代表する篤農家であった(近現代編史料集③ No.一三〇)。そのほか関根惣八(関根勝五郎長男)や小山金蔵、竹松悦太郎、青木直次郎、浅見九一郎、浅見源次郎、滝島隆なども、栽培方法の改良に熱心に取り組んだ篤農家であった(近現代編史料集③ No.一二七/No.一二八)。こうした農業の改良に熱心に取り組む篤農家が分厚く存在したことこそ、小平農業の強みであった。
さらに小平のイモは収穫量だけではなく、品質面においても市場の評価を高めていった。小平をはじめ北多摩郡北部の甘藷は「村山甘藷」と呼ばれ、かつては品質において劣る「土俵物」という扱いであった。しかし一九三一年一〇月、北海道室蘭へ東京府を代表して出品した際には「川越所沢あたりのものとなら品質風味においても負ける心配はない」(『東京日日新聞』府下版 一九三一年一〇月三〇日)と自信を深めるようになった。その後品質においても、甘藷の本場川越の「王座」を揺るがし、「芋なら村山」と言わしめるまでになった(『東京日日新聞』府下版 一九三五年八月二九日)。こうして小平のイモの声価は高まり、市場は東北・北海道へと広がっていった(『東京日日新聞』府下版 一九三五年九月二四日)