小平では、甘藷の栽培面積は一九三八(昭和一三)年の三九〇町歩から四二年には二一七町歩へと約四五%減少し、収量は一三六万石から八六万七千石へと約三六%減少した。このように戦時開発による農地の転用や労働力の減少により、収量は大きく減少したのだが、単位面積あたりの収量はむしろ増加している。つまり篤農家たちの改良への努力は戦時にも続けられていったのである。小平でイモづくりの「名人」と呼ばれた鈴木重雄や関根惣八は、門外不出にしていた栽培方法や作付け技術を伝授するなど、みずから村内を行脚して増産指導にあたった(近現代編史料集③ No.一四〇)。その甲斐もあり、馬鈴薯ではそれまで反当り五百貫(一八七五kg)の収穫が一般的であった小平から東村山にかけての畑で、その倍にあたる千貫(三七五〇kg)という驚異的な反当り収量を記録するようになった(近現代編史料集③ No.一三八)。なお関根惣八は「人一倍堆肥を作るために不断の努力を続け」て(近現代編史料集③ No.三二九)、のちに馬鈴薯の反当り収穫量の日本最高記録を達成することになる(近現代編史料集③ No.三三二)。
図4-10 『毎日新聞』府下版
1943年8月3日
さて、戦時下の食糧統制制度のもとで甘藷と馬鈴薯は、自家消費分を除いてすべてを日本甘藷馬鈴薯株式会社が買い取ることになっていた。集荷所は各町村一か所に制限され、価格も統制されるなど、出荷統制がはかられた。しかしイモ類の「闇」売買はあとを絶たず、「買出し部隊」と呼ばれた都会の消費者との売買は、警察や翼賛壮年団による監視の目をくぐりながら続けられた(第四章第四節2参照)。