かつて農民のあいだで「西瓜栽培は賭博(ばくち)だ」といわれていた。というのも、玉付きがちょうど梅雨期にあたるため、この期の天候で収穫が左右されるからである。その西瓜が、小平で栽培されるようになったのは、関東大震災以後のことである。都心が焼け野原と化してしまったとき、奈良県から送られてきた大和西瓜が、復興のために日夜働く東京市民に大歓迎された。このことがきっかけとなって、小平の農家にも商品作物としての西瓜栽培への関心が生まれたのだった。
この大和西瓜を多摩地域の風土に合うように品種改良したのは、東京府立農業試験場の多摩川西瓜であった(近現代編史料集③ No.二三)。その後も改良は進み、小金井町の東京種苗試験場の古谷春吉の手で、早生で、玉付きがよく、豊産種で、そのうえ甘みの強い(甘度糖分一二~一三度)「新都」が誕生する。その名前は一九四三年に東京都制が施行されたことにちなんで命名された(「西瓜新都栽培のあゆみ」)。
しかし、戦時には食糧増産が最優先され、西瓜栽培は貯蔵のきくかぼちゃなどへの転換が強いられ、一農家につき二〇株までに栽培を制限されたのであるが、その味のよさゆえ、農業会の申し合わせにもかかわらず闇栽培があとを絶たなかった(近現代編史料集③ No.二三一)。