戦時統制の進展

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一九三七(昭和一二)年七月七日、北京郊外の盧溝橋付近で日中両軍が衝突し、日中全面戦争に発展していった。同年九月には臨時軍事費特別会計が設けられ、臨時資金調整法、輸出入品等臨時措置法が制定されモノとカネの統制がなされた。そして一〇月には戦時経済統制の中心機関として企画院が設置され、統制経済は本格化していった。
 一九三八年四月、国家総動員法が制定され、政府は議会の承認なしに戦争遂行に必要な物資・労働力を動員する権限が与えられ、国民生活は全面的に統制下に置かれ、翌三九年の国民徴用令によって一般の国民が軍需産業に動員されるようになった。
 戦争の進展にともない戦争遂行に必要な軍需品の生産が優先されるようになり、不要不急の民需品の生産・輸入は制限され、生活必需品は日を追うごとに品不足となっていった。こうした状況下で政府はインフレーションの抑制のために一九三九年一〇月に価格等統制令を制定し、公定価格制を導入した。また配給や点数切符制による流通統制も実施され、大都市部においては一九四〇年六月に砂糖・マッチ、四一年四月には米・小麦粉・酒が、四二年二月には塩・味噌・醤油が配給制となった。
 小平村における戦時下の生活物資の配給についてみよう。一九四一年四月の米の配給通帳制移行を前に隣組の回覧板で米の配給方法について周知された。配給指定所は府下に支所六か所、配給所一四八か所が置かれることとなった。小平村は田無支所の管轄であり、村内の野中と小川に計二か所設置された(近現代編史料集③ No.二九七)。
 また、一九四二年には原材料の油脂確保が困難になり家庭用石鹸も配給制となった。小平村では、一九四二年一〇月二日に村長から村内の部落会長に通達がなされた。配給は隣組をつうじて世帯ごとにおこなわれ、購入量は一人から三人までの家庭で浴用石鹸一個、洗濯石鹸一個とされ、世帯人数ごとに細かく定められた(近現代編史料集⑤ No.一〇二)。