一九三七(昭和一二)年に入り一九二〇年以来五期一七年間村長をつとめてきた小川良助が病気のため執務が困難となった。この後数年間、小平村政は滞納税問題という難問を抱えながら短期間で村長が交代するなど不安定な時期となった。村長の執務を代行するために東京府から加藤俊夫が派遣され、二月一九日の村会で二〇数年間設置されていなかった助役を選任することとなった。加藤と小川良助は懸案となっている村税滞納問題を処理するために村役場の書記青木義一を推薦したが、村議の荒井勝五郎らは立川六太郎(元郡会議員)を推薦し、また小川・野中選出の議員らは小野熊太郎(前東京府議)を推薦し、助役の選考をめぐって村会は紛糾した(近現代編史料集③ No.一八三/No.一八四)。そのさなかの三月一〇日に小川良助が亡くなった(享年七〇歳)。三月一四日に小川良助の村葬がおこなわれ、長年の功績に対し村から弔慰金三千円が贈られた(近現代編史料集① 六六六頁)。
現職村長の死亡にともない、焦点は、助役の選考から後任の村長の選出へと移った。小川村長の後任には東京府議などを歴任してきた小野熊太郎(小川五番)が有望視された。一方、元村会議員で郡会議員もつとめてきた立川六太郎(小川四番)を擁立する一派もおり議会は二分された。二〇日の村会で一七名の村会議員が投票した結果、小野熊太郎(一一票)、立川六太郎(六票)で小野熊太郎が当選した(近現代編史料集① 六六八~六七一頁)。
そして懸案であった助役については、四月五日の議会で有給助役設置条例を廃止し、四月一五日の村議会で住職で一九三三年より村会議員をつとめている溪桂岩(たにけいがん)(野中東)が推薦された(近現代編史料集① 六七三~六七五頁)。